バイブル・エッセイ(234)罪なき者の苦しみ


罪なき者の苦しみ
 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」(マタイ2:13-18)
 イエス誕生の陰に、何百人もの子どもたちが虐殺されるという悲劇がありました。なぜ、こんなひどいことが起こったのでしょう。なぜ、まったく罪のない子どもたちが無残な死を遂げなければならなかったのでしょうか。
 東日本大震災の直後、あるテレビ番組で東北の子どもが教皇様に、「なぜ東北の子どもたちは、こんな目にあわなければならないのですか」と質問しました。なぜ罪もない子どもたちが津波に溺れ、泥まみれになって死ななければならなかったのかというのです。この質問に、教皇様はただ次のように答えました。「わたしにもわかりません。皆さんと共に苦しみながら、その答えを神に尋ね続けるだけです。」
 おそらくこれは、苦しみの中にある子どもたちの問いかけに対する、人間として最も誠実な答えだと言えるでしょう。なぜ罪のない者が苦しみの中で死ななければならないのか、その答えは人間には与えられていないのです。イエス・キリスト御自身、罪なくして十字架につけられ、息を引き取ろうとする直前に「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と自分の死の意味を神に問いかけています。
 しかし、わたしたちは罪のない者の苦しみが決して無意味でないということだけは知っています。なぜなら、イエス・キリストは十字架上での無残な死を体験し、復活することで人類を救ったからです。すべての罪なき者の苦しみも、イエス・キリストの苦しみと結ばれるとき、きっと人類を救うでしょう。ここに、キリスト教の救いがあると思います。
 教皇様は、質問に答えた後、その子どもに「いつもイエス様かあなたと共にいてくださることを忘れないように」と言いました。イエスと固く結ばれている限り、わたしたちが日々の生活の中で味わう理不尽な苦しみは意味を持ちます。エスが味わった十字架上の理不尽な苦しみと結ばれている限り、わたしたちが味わうすべての理不尽な苦しみは人類の救いのために意味を持つのです。そのことを忘れず、イエスと共に苦しみの十字架をになって生きましょう。
※写真の解説…スラム街の母子。フィリピン、マニラにて。