バイブル・エッセイ(238)炎の城壁


炎の城壁
 わたしが目を留めて見ると、ひとりの人が測り縄を手にしているではないか。「あなたはどこに行かれるのですか」と尋ねると、彼はわたしに、「エルサレムを測り、その幅と長さを調べるためです」と答えた。わたしに語りかけた御使いが出て行くと、別の御使いが出て来て迎え、彼に言った。「あの若者のもとに走り寄って告げよ。エルサレムは人と家畜に溢れ、城壁のない開かれた所となる。わたし自身が町を囲む火の城壁となると主は言われる。わたしはその中にあって栄光となる。その日、多くの国々は主に帰依してわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたは万軍の主がわたしをあなたに遣わされたことを知るようになる。」(ゼカリア2:5-9,15)
 この預言はやがてエルサレムの城壁が破壊されること、そのとき神が人々の間に現れ、火の城壁となって人々を守ってくださることを告げています。2000年以上前のイスラエルに向けた預言ですが、この預言をわたしたちに語られたものとして読むこともできるでしょう。エルサレムをわたしたち自身、その城壁を、自分を守るために何重にも張り巡らせた心の壁と考えてみてはどうでしょうか。
 神の力を信じきれない人は、自分で自分を守るため、心に何重もの壁を張り巡らせてしまうことがあります。例えば、多くの財産を蓄えることで自分と貧しい人々の間に壁を作り、財産を持っている自分は特別な人間だと考えることで自尊心を守ろうとする人がいます。学歴や資格、名誉、あるいは経験などでも同じことが起こりえます。何かを持っていることで自分は特別だと思い込み、それらを持たない人々を見下す人は、自尊心を守るために自分の周りに壁を張り巡らしているのです。
 ですが、そのような壁はいつか、完全なまでに破壊され、崩されるときがやってきます。病気や事故など人生の大きな試練に直面した時、あるいは人生の最後に死という現実に直面した時、わたしたちが作り上げたそれらの壁は、跡形もなく崩れ去るのです。そのとき、わたしは病床に横たわり、もはや自分では何もできない無力な人、社会の片隅に追いやられ、誰からも顧みられない一人の人間として取り残されるでしょう。
 しかし、まさにそのとき、わたしたちの心に神がやって来られます。自分の無力さを痛いほどに味わい、神に助けを求めて叫びの声を上げるときにこそ、神はわたしたちの心に来てくださるのです。そのときわたしたちは、自分を守ろうとして造っていた壁が、実は自分と神を遠ざける壁だったことに気づくでしょう。そのとき神は、何も持たない空っぽの心を聖霊の炎で満たしてくださいます。何も持たなくても、神が自分と共に生きていてくださることだけで満足した心には、神から来る喜びや力が炎となって燃え上がるのです。その炎こそ、わたしたちを絶望や疎外感から守る壁、何ものも、死でさえも崩すことができない無敵の壁です。
 もしわたしたちが、まだ自分で作った土くれの壁を頼りにしているなら、その壁を壊してくださるようにと神に願いましょう。壁が打ち壊されたとき、神は必ずわたしたちの心に聖霊を送り、炎の城壁でわたしたちを守ってくださるはずです。
※写真の解説…冬枯れの木と御濠。大阪城公園にて。