バイブル・エッセイ(244)「黙れ、出て行け」


「黙れ、出て行け」
 エスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。(マルコ1:21-28)
 イエスが「黙れ。この人から出て行け」と一喝すると、荒れ狂っていた悪霊がたちまち退散してゆきます。胸がすかっとするような、本当に気持ちのいい叱り方です。わたしもこんな風に叱ることができれば、と思うのは教員をしているからでしょうか。
 学校で教えていると、時々、子どもたちの心に悪霊が忍び込んだのではないかと思えるほど教室がざわつくことがあります。新任教員として配属されたばかりの頃、わたしは「なめられてたまるか。授業を先に進めなければいけいない」と思って大声で「黙れ」と怒鳴ったものでしたが、あまり効果がありませんでした。最初の数回は驚いて黙っても、生徒たちは次第に慣れてきて「だったら、もっといい授業をしろー」などと言い返すようになってしまったのです。怒鳴った後の後味も、もちろんよくありませんでした。
 数年が過ぎてゆとりが出てきてからは、「なめられてなるものか」というような気持ではなく「このクラスのために、この子のために、ここはきっぱりと叱らなければ」と思ってから「黙れ」と言うようになりました。妥協のない、気迫のこもった声で一喝するのです。すると、子どもたちは言うことを聞いてくれることが多くなりました。その一喝によって、教室にも、わたし自身の心にもすがすがしい静寂が訪れるようになったのです。
 未熟な教師と、経験を積んだ教師の違いですが、この違いは偽善的な律法学者と真の預言者エスの違いに重なるのではないかと思います。律法学者は自分自身のために、借りてきた言葉で語り、その言葉には権威がありません。それに対して、預言者は相手の救いのために、神から与えられた言葉で語り、その言葉には権威があるのです。
 これは教室で生徒をしかる時だけでなく、家庭で子どもをしかるときや、教会で仲間を注意するときなどにも当てはまるのではないでしょうか。それだけでなく、生活のあらゆる場面で、わたしたちがどんな気持ちで言葉を発しているかを見直すきっかけにもなるかもしれません。わたしたちは、律法学者のように話しているでしょうか。それとも、預言者として話しているでしょうか。 
 激しい憤りを感じたとき、何か言わずにいられないとき、感情に駆られて話し出すのではなく、しばらく沈黙の中で祈りたいものだと思います。「この相手の魂の救いのため、今わたしは何を語ればいいのでしょうか。わたしの口に言葉をお与えください」と祈りの中で神に尋ね求めるのです。そのような祈りの深みから出てくる言葉は、預言者の言葉、権威のある言葉になるでしょう。そのような言葉だけが、相手の心の悪霊を追い出し、わたしたち自身の心にも平安をもたらすことができます。どんな時にも預言者として生きられるように、まず語るべき言葉を神に尋ね求めてから口を開く習慣を身に着けたいものです。
※写真の解説…六甲山系、荒地山。いたずら好きな天狗の霊が住むという伝説がある。