バイブル・エッセイ(245)奇跡はどこから


奇跡はどこから
 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。(マルコ6:1-6)
 イエスの力を信じ、神の手に身を委ねた人々を、イエスは次々に癒していきます。しかし、イエスを軽んじた人たちを、イエスは癒すことができませんでした。どうやら、奇跡の力は、信じる人とイエスの間にだけ実現するものだったようです。イエスは、触れた人を誰でも癒してしまう驚異の力を持ったスーパーマンではなかったのです。
 奇跡の力は、イエスと信じる人々の間に生まれる。それは、何となくわかるような気がします。例えば、学校で授業をするとき、生徒たちのためにどんなに一生懸命に準備しても、生徒たちの方で聞いてくれないとつまらない授業になってしまいます。ところが同じ内容の授業でも、生徒たちが真剣に耳を傾けてくれるクラスでは生徒たちの心も、話しているわたし自身の心も揺さぶるようなよい授業になっていくのです。わたしに優れた話術や学識があるからよい授業ができるのではなく、よい授業は生徒とわたしの間に生まれる恵みだということがそのことからわかります。よい授業は、生徒とわたしの心が通い合ったとき、わたしたちの間に生まれるものなのです。
 イエスの奇跡も、きっとそのようなものだったのでしょう。苦しんでいる兄弟姉妹を何とかして救いたいというイエスの思いと、イエスを信じ、神の手に身を委ねる人々の思いが交わったとき、そこに奇跡が生まれたのです。故郷の人々はイエスが「このような力をどこから得たのだろうか」と訝しみましたが、その力はイエスの慈しみと人々の信仰が交わったところに生まれた、愛の力だったのです。 
 奇跡がそのようなものであるとすれば、もしかするとわたしたちにも奇跡を起こすことができるかもしれません。エスのように不治の病を癒すほどではなかったとしても、わたしたちが互いに慈しみと信頼をもって交わる時、絶望の闇に沈んでいた心に小さな希望のともしびを灯す奇跡、敵意と憎しみに縛られていた心をその呪縛から開放する奇跡、疲れ切った心に生きる力を取り戻す奇跡、そんな奇跡は次々に起こりそうです。エスと人々の間に起こったように、わたしたちの間にも次々と愛の奇跡が起こるようにと願います。
※写真の解説…開花したばかりの梅の花。京都、北野天満宮梅園にて。