やぎぃの日記(133)諏訪司教、叙階感謝ミサ


諏訪司教、叙階感謝ミサ
 昨年6月、司教に叙階され高松教区長になられた諏訪榮治郎司教様の司教叙階を感謝するミサが、先日カトリック神戸中央教会で行われた。

 諏訪司教様とわたしたち神戸東ブロックの三教会はとてもつながりが深い。まず、司教様は六甲教会で幼児洗礼を受け、御幼少のころは教会学校や侍者会にも参加しておられた。御家族は今でも、六甲教会の信徒として活躍しておられる。大阪教区の司祭として叙階された後、1995年春、震災で半壊した住吉教会に主任司祭として着任された。教会再建のために全力を尽くし、プレハブに住んで信者さんたちと被災の苦しみを共にされたと聞いていてる。その後、当時の中山手教会に移動され、下山手、中山手、灘という3つの小教区を現在の神戸中央教会に再編することに全力を尽くされた。震災で教会の建物を失った上に、小教区そのものが合併されるということでショックを受けた信徒の方も多く、統合に向けた歩みは困難を極めたという。
 東ブロックにこれほど尽くしてくださった方が司教に叙階されたということで、お招きして共にその喜びを祝いたいという声は昨年から上がっていた。それがようやく実現したということで、神戸中央教会の聖堂は三教会から集まった500人以上の信者さんたちであふれた。司教様が入堂されるとどなたの顔にも優しいほほ笑みが浮かび、皆さんがどれほど司教様を大切に思っておられるか、この叙階を喜んでおられるかがひしひしと感じられた。式中、ハンカチで涙をぬぐっておられた方も多く、わたしも思わず胸が熱くなった。
 お説教を聞きながら、「この方は、本当になるべくして司教になられた方だ」と実感した。これまでの人生の歩みがどれ一つとして無駄になることなく、すべて現在与えられた使命の準備になっている。司祭叙階の直前に1年かけて「もはや私が生きているのではない、キリストが私の内に生きておられるのである」というパウロの言葉を黙想し、それが腹におちたときようやく司祭叙階の恵みを受けたと話しておられたが、ミサのあいだ司教様の中に確かにイエスが生きておられるのを感じた。司教様の人生をしっかりとつかみ、導いた聖霊の大きな手が、協働司式するわたしたちの人生をも包み込もうとしているような気さえした。まったくとるに足りないわたしだが、この偉大な先輩に倣って聖霊の導きのままに歩み続けたいと思う。
※写真の解説…左からオマリー神父、諏訪司教、赤波江神父、シリロ神父、わたし、タンス神父。