バイブル・エッセイ(257)底抜けのお人よし


底抜けのお人よし
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:43-48)
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエスはおっしゃいます。福音書のあらゆる教えの中で、一番受け入れるのが難しい教えかもしれません。「敵を愛するなんて、そんな馬鹿な」と思う人がいても当然です。
 これと同じメッセージを実践する人々を主人公に、たくさんの童話を書いた人がいます。岩手県出身の作家、宮沢賢治です。たとえば、怪しい外国人に騙されて丸薬に姿を変えられ、売られそうになった山男の話があります。鞄に詰め込まれた山男は初め、かんかんになってこの外国人を罵りますが、しかし次第に相手に同情し始めます。「わたしもつらいが、こんなことをしてまで生きていかなければならないこの男はもっとつらいに違いない。この男の苦しみを少しでも和らげることができるなら、こんなわたしの身などくれてやろう」とさえ思い始めるのです。
 始めこの考え方に出会ったときわたしは「人がいいにもほどがある。いくらなんでも、そこまでするなんて愚かなことだ」と思いました。しかし、賢治の作品を読んでいると、このような考え方をする主人公たちが次々と出てきます。偽医者に騙されるけれども怒らない純朴な農民たち、列車の中で乗り合わせただけの相手のために自分の命を捧げても構わないと思う少年など、誰もが信じられないほどの人のよさで相手をゆるし、相手のために身を捧げるのです。
 賢治は日蓮宗の熱心な信徒でしたからイエスの教えとは直接関係ないのでしょうが、彼が描く主人公たちは「敵を愛し、迫害する者のために祈る」人々のように思えます。そのような行いは、多くの人にとって愚かとしか映りませんが、どうやら賢治は本気でそんな愚か者になりたいと思っていたようなのです。
 冒頭の教えを、後にイエスは十字架上で文字通り実践しました。自分の命を奪おうとする敵、ローマ兵たちの救いを祈り、自分をローマ兵に手渡したユダヤの人々を救うために十字架上で自分の命を捧げたのです。自分を丸薬に変えた男の幸せを願った山男以上に、度を越した人のよさと言わざるを得ません。しかし、全人類の救いは、自分のことをまったく勘定に入れないこの愚かなまでの愛によって実現したのです。わたしたちの救いは、愚かさの極みにこそあると言ってもいいかもしれません。
 どうしょうもないくらいのお人よしになりたいと願った賢治、実際にそうなって死んだイエス、この2人に倣って、わたしたちも底抜けのお人よし、愚かなまでの愛を生きる人になりたいものです。
★文中で紹介したのは「山男の四月」という作品です。
※写真の解説…雪の間から姿を現したザゼンソウ岩手県小岩井農場にて。