《3.11メッセージ「被災地の苦しみを共に担う使命」》


★3月11日、カトリック梅田教会で開催された3.11祈りの集いでお話ししたメッセージを、簡単にまとめてみました。考えるための手掛かりになれば幸いです。
3.11メッセージ「被災地の苦しみを共に担う使命」
 東日本で大震災が発生したとのニュースを聞いたのは、インド、コルカタでのことでした。マザー・テレサの施設へ働きに行っていたのです。テレビの画面に次々と映し出される、信じられないような光景を見て、私は他の日本人たちと一緒にただ茫然とするだけでした。
1.マザーの墓前で
 遠い異国の地にあって私に何ができるのか、司祭として何をすべきなのか、私はマザーの墓前に跪いて神に尋ね続けました。その時ふと心をよぎったのは、マザーの次のような言葉でした。
「わたしたちの使命は、苦しんでいる人たちがいれば世界中どこにでも行って、その人たちと一緒に苦しむことです。」
 イエスは、地上にやって来て人間の苦しみを全て味わい尽くすことで、人間を苦しみから救い出しました。私たちにもそれと同じ使命が与えられている。苦しんでいる人々と共に苦しむことで、イエスの救いの業に参加するのだとマザーは考えていました。エスは今、被災地で人々の苦しみを共に担いながら苦しんでおられます。イエスと共にその苦しみの十字架の一端を担うことこそ、今なすべきことだとマザーの墓前で私は確信しました。祈りによって、折鶴を負ったり、物資を届けたり、ボランティアに出かけたりすることによって、私たちにできるあらゆることを探して、被災地の人々の苦しみをイエスと共に担うことこそ私たちに与えられた使命ではないでしょうか。
2.福島の地で
 帰国後、私は友人たちの住む福島をまっ先に訪ね、被災者の方々から話をうかがいました。原発事故後も住み続けている人たちがいるのを忘れて、福島の危険性ばかり強調しないでほしい」というのが最初に聞こえた声でした。放射能への不安以上に差別の苦しみ、福島に住み続けざるをえない人々への無理解が引き起こす苦しみはひどいものだったのです。その後も数回訪れる中で「先祖代々、大切に守ってきた畑を捨てて逃げるわけにはいかない。私たちが生きる場所はここだけなんだ」と涙ながらに訴える農家の方の声、「何を信じていいか分からない状況の中で、自分たちで判断して逃げろなんて無茶です」と嘆息するお母さんたちの声などに接してきました。そのたびに私は、この人たちの苦しみを担うために何ができるのか、何をなすべきなのかと考え込まざるをえませんでした。
3.共に苦しむ使命
 放射能の危険性についての議論は活発に行われるべきだし、原発はなくすべきだと思いますが、そのプロセスにおいて福島で暮らし続けている人たち、暮らし続けたいと願う人々の気持ちを踏みにじることだけは避けたいと思います。それは、イエスが担う十字架をさらに重くするからです。この問題について完全に正しい答えを持っている人など、おそらく誰もいないでしょう。いま現実に福島で苦しんでいる人々の苦しみを真摯に受け止め、その苦しみをの一端を共に担いながら、一番ふさわしい解決を祈り求めてゆきたいと思います。
※写真の解説…カルカッタマザー・テレサの墓の上に置かれた折鶴。