バイブル・エッセイ(272)生きられた真理


生きられた真理
 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。(一ヨハネ2:1-5)
 「神を知っている」と言いながら、神の言葉を守らないならその人の内に真理はないが、守るならその人のうちに真理があるとヨハネは言います。神の真理は頭で理解したり、知識として身に着けたりできるようなものではなく、絶えず神の言葉に耳を傾け、神の御旨のままに生きるその人の生き様の中にこそあるということでしょう。
 確かにそうだなと思わせる出来事がありました。かつて神学生として、年老いて現場を退いた司祭たちが暮らすホームのお手伝いをしていたときのことです。ある宣教師の司祭は、若いころローマで勉強し、神学を極めた方でした。日本でも神学部の教授として長く教え、本も書いておられました。神様についてこれ以上、勉強した人も少ないだろうというくらいの方です。しかし、わたしたち神学生がそのことを賞賛すると、その方はいつもとぼけたように「わたしは神様のことがよくわからない」と言っておられました。勉強すれば勉強するほど神様の偉大さに気づかされ、ますます神様のことが分からなくなっていく、きっとそんな意味だったのでしょう。
 その司祭はいつもそう言っていましたが、しかし、そばにいたわたしは彼を通して神様のことをたくさん学んだような気がしています。どんなことがあっても苛立ったり、人を責めたりしない柔和さ、若者の愚かな話にも真剣に耳を傾ける誠実さ、自分の経験や学識を少しも誇らない謙遜さ、それらの中にイエスの教えが文字通りに生きられていたからです。神について確かに彼は全てを知らなかったのだろうと思いますが、彼の生き方の中には確かに神の真理が宿っていました。
 それはきっと、彼が知らないことを知らないと認め、どんなときも自分の思い込みや意見ではなく神の御言葉に耳を傾ける謙虚さをもっていたからでしょう。何の先入観も偏見も持たない彼のまっさらな心に神の御言葉が書き記され、彼の生きざまを通して周りの人々に伝えられていった。そのように思えます。その司祭の生涯そのものが、まるで神の真理を書き記した一冊の本のようでした。
 神を知るとは、どんな時でも神の言葉に耳を傾け、その言葉に耳を傾けて生きることであり、そのような生き方そのものに真理が宿るのだと思います。逆に、自分は神のことを知っていると誇り、自分自身の声に耳を傾けて生きる人のうちには真理がないと言ってもいいでしょう。わたしたちもこの司祭の模範にならい、生き方そのものによって、生き方そのもでしか伝えられない神の真理を証していきましょう。
※写真の解説…淡路島、「あわじ花さじき」で満開を迎えた菜の花。