バイブル・エッセイ(273)出来事に聞く


出来事に聞く
 民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものであれば彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」(使徒5:34-39)
 イエスの福音を力強く証する弟子たちの周りに、たくさんの人々が集まってきます。それがローマ帝国を刺激するのではないかと懸念した議員たちは使徒たちの活動をやめさせようとしますが、教師ガマリエルは次のように言って議員たちを諭しました。「あの計画や行動が人間から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものであれば彼らを滅ぼすことはできない。」人間の考えによって相手を裁くのをやめ、それが神から出たものかどうかを出来事それ自体によって判断しようというのです。
 この言葉は、「裁いてはならない」というイエスの言葉と深く響き合っているように思います。裁いてはならない理由は、自分が裁かれないため、裁くのはただ神だから、イエスは裁くためでなく救うために来たからなど色々と考えられますが、そもそもわたしたちは人を正しく裁くことができないのだということをこの言葉は教えてくれます。わたしたちは人を正しく裁くことができません。なぜなら、神がこの世界にどのようにして救いを実現しようとしておられるのか知らないわたしたちには、裁くための基準そのものがないからです。神の救いの計画は出来事そのものにおいてわたしたちに語られますから、最も賢明なのは出来事を通して語られる神のメッセージに耳を傾けながら、それに答えて自分たちの取る行動を決めていくことなのです。起こっていることを自分たちの考えによって裁き、止めてしまえば、わたしたちはいつまでも神の御旨を知ることがないでしょう。
 自分に都合の悪い出来事を神の御旨に反すると考え、滅ぼしてしまいたいと願うのは人間の常でしょう。わたしたちを辛辣に攻撃し、害を与えるような人を、わたしたちは裁かずにいられません。しかし、そんなときガマリエルのこの説得に耳を傾けたいと思います。もしかすると、神様はそのわたしたちに都合の悪い出来事、不愉快な人を通してこの世界に救いの業を実現しようとしているかもしれないのです。
 自分たちにとって都合が悪く、不愉快であることは、それが神の御旨に反しているということの証拠にはなりません。まずは出来事をありのままに受け入れ、その出来事を通してわたしたちに何事かを語りかけようとしておられる神の声に耳を傾けたいと思います。その出来事に込められた神のメッセージに気づくとき、わたしたちは初めて、出来事を正しく判断して行動することができるでしょう。
※写真の解説…花壇に寄せ植えされたパンジー。「あわじ花さじき」にて。