真理の霊
「言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:12-15)
「言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」とイエスはおっしゃいます。イエスが十字架上での死を経て天に挙げられた後でなければ、弟子たちには真理を理解することができないというのです。それは、おそらく弟子たちの心がまだこの世の事柄にひかれていたからでしょう。地上のものに執着した心には、天上の真理を理解することができないのです。では、弟子たちの心には一体どんな執着があったのでしょう。
まず、この世の常識への執着、すなわちこの世の知識を神の真理に優先する傲慢があっただろうと思います。知識を誇る傲慢な心は、例えば「イエスは、死んで三日の後に復活する」という神の真理を明かされたとしても、「自分はこの世界のことをよく知っているが、そんなことはありえない」と考えて拒絶するだけでしょう。事実、イエスが十字架の死を予告したとき、弟子たちはその話を拒みました。死者が復活するという常識ではありえない出来事に直面して「全てを知っている」と思い込んでいた自分の傲慢を打ち砕かれ、「神にできないことは何一つない」と悟るまで、弟子たちは神の真理を理解することができなかったのです。
もう一つ考えられる執着は、この世の栄光への執着です。世間の喝采を浴びる華々しい成功、大いなる業、立身出世、そのようなものに執着への根底には、神に頼らず自分自身に頼る傲慢があります。あれができるから、これをしたから自分は偉いと考える傲慢です。そのように地上の栄光により頼む傲慢な心には、全人類を救う十字架上でのイエスの死は、単なる無残な失敗としか見えないでしょう。実際、弟子たちは十字架上の死に直面して失望し、逃げ出そうとしました。彼らの目の前に復活したキリストが現れ、地上の栄光にはるかにまさる天上の栄光を示すまで、彼らは神の真理に気づくことができなかったのです。
十字架の出来事を通して、自らにより頼む傲慢な心を打ち砕かれたとき、弟子たちの心に真理の霊がやってきました。この出来事に学びたいと思います。自分の力や地上の栄光に執着している限り、真理の霊はわたしたちの心に来ることができません。非常識、失敗としか見えないような十字架の体験を通して、自分の無力さ、地上の栄光の虚しさを悟り、神の力、天上の栄光に目を開かれるとき、わたしたちの心に真理の霊が来てくださいます。謙遜な、ただ神のみにより頼む心で、聖霊の到来を待ちましょう。
※写真の解説…三重県、赤目四十八滝にて。