バイブル・エッセイ(284)愛の形見


愛の形見
 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ14:22-26)
★このエッセイは、「キリストの聖体」の祭日の「子どもと共に捧げるミサ」で行った説教に基づいています。
 イエス様は、わたしたちのために自分の体をパンの形で残してくださいました。今日はそのことを感謝する日ですが、どうしてイエス様の体、「御聖体」はわたしたちにとってそんなに大切なのでしょう。
 東日本大震災から数か月後、ある11歳の男の子が書いた日記が新聞に載りました。その子は津波からなんとか逃れたのですが、その子のお父さんは、残された家族を心配して家に帰ったときに車ごと津波にのまれてしまったそうです。数週間後、お父さんの遺体が発見され、男の子はお母さんと一緒に会いに行きました。冷たくなって動かないお父さんの腕で、ご自慢の黒い大きな腕時計の針だけが動いていたことを、男の子は不思議に思ったそうです。お母さんは、その腕時計を外して、「これはお前が持っていなさい」と男の子に渡しました。男の子はその日の日記に「この時計を、ぼくは一生大切にする」と短く書きました。
 男の子にとって、この腕時計はただの腕時計ではないと思います。それを見るたびに、お父さんと行った海のこと、家族での外食や宿題を手伝ってもらったことなど、いろいろな温かい思い出が湧き上がってくることでしょう。つらいことがあっても、男の子はきっとその思い出に励まされながら乗り切ることができるに違いありません。もし男の子がお父さんのことを思い出さなくなったとしても、腕時計の中に残されたお父さんの愛はいつまでも腕時計の中で男の子を待っていて、いざというときに必ず助けてくれるでしょう。
 それに、この時計を腕にはめている限り、男の子はお父さんのような人になっていくんじゃないかとわたしは思います。折に触れて、「こんなとき、お父さんならどうするだろう」と考えるに違いないからです。「お父さんは自分の命の危険を考えずに家族の様子を見に行くような人だった。その人の子どもとして、自分も恥ずかしくない生き方をしよう。」たとえばこんな風に考えて、男の子はお父さんのように立派な人になっていくのです。お父さんの愛、お父さんの命は、そのような形で男の子の中に生き続けると言ってもいいでしょう。
 イエス様は、わたしたちのために腕時計ではなく、御自分の体そのものをパンの形で残してくださいました。御聖体を見るたびごとに、わたしたちは聖書に書いてあるイエス様の優しさや、神父さん、リーダーたちから習ったイエス様の温かさを思い出して、きっと元気になれるでしょう。もし御聖体から遠ざかってしまっても、御聖体にこめられたイエス様の愛はいつまでもわたしたちを待っていて、いざというとき必ず皆さんを助けてくれます。
 腕時計のように身につけるだけでなく、御聖体はわたしたちの中にまで入って来て、わたしたちの一部になります。わたしたちの中におられるイエス様の愛に励まされ、「こんなとき、イエス様ならどうするだろう」と考えながら生きていくとき、皆さんもイエス様のような人になっていくに違いありません。御聖体の中に宿ったイエス様の愛、イエス様の命は、そうやって皆さんの中で生き続けるのです。
 御聖体がどうして大切か、ちょっとわかったでしょうか。御聖体は、どんなときでもわたしたちにイエス様の愛を思い出させ、元気にしてくれる。イエス様の命をわたしたちの中に運んで、イエス様のような人にしてくれる。だからこそ、御聖体はとても大切なのです。わかったら、男の子と一緒に「この御聖体を、わたしたちは一生大切にする」と言いましょう。目に見えるパンの形と一緒に、そこに込められたイエス様の愛、イエス様の命を心でしっかりと受け止め、いつまでもイエス様と一緒に生きていくことができますように。
※写真の解説…カトリック六甲教会の庭で花を咲かせたテッポウユリ