バイブル・エッセイ(288)後から来られる方


後から来られる方
「神はサウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られたのです。」(使徒13:22-26)
 イエスの前では「その足の履物をお脱がせする値打ちもない」と言って、ヨハネは弟子たちを戒めました。人々を悔い改めさせ、回心へと導いたヨハネと、「後から来られる方」イエスのあいだにどんな違いがあるのでしょう。
 その違いは、回心させる者と救う者の違いだと言っていいでしょう。ヨハネは人々を悔い改めさせ、神に向かって回心させましたが、イエスは人々を神と出会わせ、救いを実現したのです。この違いを、「放蕩息子の譬え」を使って説明してみましょう。
 父から受け取った財産をすべて使い果たし、仕事探しにも失敗して放蕩息子は失意のどん底にありました。先の見えない闇の中でもがき苦しんでいたのです。しかし、そんな彼にある時ふと父の家での楽しい思い出がよみがえります。父の家に戻りさえすれば、きっとまた何とかやり直せる、そう思った彼は父の家に向かって歩き出しました。これが回心です。神の愛を思い出してもう一度立ち上がり、神に向かって歩きはじめること、それが回心なのです。ヨハネが果たしたのは、人々をこの回心へと導く役割でした。
 息子が父の家への道を歩いていくと、まだ遠いところで父が向こうから走って来ます。父と出会い、その腕の中に抱きしめられたとき、息子の心に救いが実現しました。息子は再び父の愛に包まれ、父との固い絆の中で新しい人生を歩み始めたのです。道の途中で神の愛に出会い、その愛に包み込まれること、それこそ人間の救いだと言っていいでしょう。人々はイエスにおいて神の愛に出会い、その愛に包み込まれて救われました。イエスは、まさに救い主だったのです。
 回心はとても大切なことであり、それなしに救いはありえませんが、しかし「後から来られる方」と出会わない限り救いに到達することはありません。回心は人間の業に過ぎませんが、救いは神の業です。「その足の履物をお脱がせする価値もない」という言葉でヨハネが言いたかったのは、自分とイエスのあいだにあるそのような違いのことでしょう。
 人間にできるのは、自分自身が神の愛を思い出して歩き始めること、誰かに神の愛を思い起こさせて神に向かって歩き始めるのを助けることだけです。「後から来られる方」を待ち望みつつ、ヨハネと共にこの使命を果たしてゆきましょう。
※写真の解説…神戸市森林植物園、長谷池のスイレンの花。