やぎぃの日記(144)大阪教区司牧者研修会「虐待・性暴力が心に及ぼす影響」〜後半


大阪教区司牧者研修会「虐待・性暴力が心に及ぼす影響」〜後半

(2)加害者にならないために
 2日目は、カトリック大阪大司教区セクシャル・ハラスメント相談窓口の担当者たちから、3年前に設置されてから今までに寄せられた相談について統計的な報告があった。プライバシーに配慮して細部は明らかにされていないが、確かに身近なところにも司祭、修道者によるパワハラ、セクハラなどで苦しんでいる人たちがいるようだ。この窓口が設けられ、宣伝のポスターが各教会に張られたとき、信徒のあいだから「教会にふさわしくない掲示」という苦情があったというエピソードも紹介された。「教会にそんなことがあるはずがない」、あるいは「あってほしくない」という信徒の思いの表れなのかもしれない。
 なぜ教会でパワハラ、セクハラが起こるのか。どうしたら発生を防ぐことができるのか。これは本当に深刻かつ複雑で、難しい問題だと思う。司祭、修道者は独身であるがゆえに人格的、あるいは性的成熟が遅れるのではないかという指摘もある。確かに、それも認めなければならない要因かもしれない。すばらしい人間的な成熟を見せる人もいるが、必ずしもすべての司祭、修道者がそうなるとは限らないのが現実だ。ただ、「結婚すれば成熟するのか」という指摘もあるので、ある程度までの要因にとどまるだろう。
 むしろ、もっと本質的な問題は、教会の伝統の中での性に対するネガティブな見方かもしれない。健全な人間ならば誰にも備わっている性の力を罪悪視し、隠し、抑圧していけば、それがゆがんだ形で暴発する可能性は大きい。信徒に対する暴言、支配、セクハラという形でそれが表れることもあるだろう。性を神様からの贈り物としてポジティブにとらえ、神様が望まれる形でそれを生かしていく道を探す必要があるのではないだろうか。性の力をポジティブに生かしていくことは、独身者でも可能なはずだ。
 セクハラの背後には、信徒に対する司祭の圧倒的な優位という教会内での力関係があるとの指摘もある。パワハラを生む体質は、そのままセクハラを生む体質でもあるということだ。司祭、修道者なら何を言っても、何をしてもゆるされるという甘えが、パワハラ、セクハラを生む1つの要因なのかもしれない。たとえ司祭、修道者であっても悪いことは悪い、言うべきでないことは言うべきでないと信徒が指摘できる雰囲気を教会の中に作っていくことが大切だと思う。教区レベルで相談窓口を作ることは、そのために大きく役立つだろう。
 一方で、司祭の圧倒的優位という力関係が崩れれば、司祭がやる気を失い、司祭になる若者も減るという指摘もある。もし本当にそうだとすれば、そもそも司祭召命とは何なのかを徹底的に考え直す必要があるのではないだろうか。尊敬されなければ、支配できなければ司祭として信徒に奉仕することができないというのでは、一体誰のための奉献なのかということになる。人の上に立って自己実現するために司祭になるのだとすれば、それは司祭職を、そして信徒を自己実現の道具にしているということにならないだろうか。
 司祭の自信や誇り、尊厳の源は、取るに足りない罪人の自分を神が愛し、人々に仕える者としてくださったという体験にこそ置かれるべきだろう。そこから出発して、司祭、修道者、すなわちわたし自身が自分の召命を見つめなおし、受け止めなおすことからパワハラ、セクハラ防止の第一歩が始まるのかもしれない。いろいろな意味で、教会と、そして自分自身と向かい合うよい機会を与えてくれた研修会だった。
※写真の解説…金色に輝くリビングストン・デイジー京都府立植物園にて。