やぎぃの日記(146)こいずみクラスより〜「一瞬の眼差し」


こいずみクラスより〜「一瞬の眼差し」
 毎月第二、第四火曜日の夜、三ノ宮の女子パウロ会書店で行われている音楽家こいずみゆりさんのクラスに出席してきた。前回は大阪教区の研修会と重なって出られなかったので、1ヶ月ぶりだった。日常生活の中での体験に根差した深い彼女の霊性にはいつも心を打たれ、多くのことを学ぶが、今回もその例外ではなかった。祈りとは何かをいきいきと語る彼女の言葉の中から、特に印象に残ったものをいくつか紹介したいと思う。

◆もし今からこの部屋に教皇様がいらっしゃると分かったら、皆さんは一体どんな準備をするでしょう。きっと部屋を片付け、きれいに身づくろいし、気持ちを整え、万全の準備でお迎えするでしょう。祈るとき、わたしたちの部屋には教皇様以上の方がやって来られます。イエス・キリスト御自身がわたしたちの部屋に来てくださるのです。そう思えば、どうやって祈りを準備したらいいかが分かるでしょう。
◆長い時間祈れないことを心配する必要はありません。真に深められた祈りならば、ほんの一瞬でも十分なのです。祈りの中でもし一瞬でもイエスと目が合うなら、その一瞬は永遠となり、永遠はその一瞬に凝縮されるでしょう。
◆祈りの中で自分の惨めさ、罪深さに気づけば気づくほど、わたしたちが受ける愛は大きくなります。目をそむけたくなるような私たちの弱さや欠点こそ、実は神様の愛を受け止めるための器なのです。
修道院で1日7回決まった時間に行われる祈りを、竹の節に譬えた神父様がおられます。一定の間隔で祈りの時間という節が入っているからこそ、修道者は竹のようにまっすぐ「神の国」に向って伸びていくことができるというのです。これは、わたしたち信徒にも言えることでしょう。一日の中に刻まれた祈りの時間という節、それこそがわたしたちの魂に、「神の国」を目指してまっすぐ伸びていくために必要な強さとしなやかさを与えてくれます。
◆座って祈ることと、活動の中で祈ることは車輪の両輪です。祈りの中で神への愛が深まれば、その愛はそのまま隣人の中におられる神への奉仕につながり、見返りを考えず隣人に尽くすなら、その奉仕はそのまま、自分を忘れて神を思う沈黙の祈りにつながります。どちらが欠けても、祈りは不完全なものでしょう。修道院には「念祷は全生活のため、全生活は念祷のため」という言葉があるそうですが、それは信徒であるわたしたちにとっても同じことだと思います。
★こいずみゆりさんのクラスは、7月の第4週から9月の第2週までお休みになります。次回は、9月25日です。どうぞ皆さまご参加ください。
★9月1日14時から、大阪・梅田のサクラファミリア教会でこいずみゆりさんのコンサート『祈りの花束Ⅱ』が行われます。音楽家こいずみゆりさんに出会うまたとないチャンス。どうぞ皆さまご参加ください。コンサートのチラシは、こちらからダウンロードできます⇒  いのりの花束2-表面.pdf 直 いのりの花束2-裏面-2.pdf 直