バイブル・エッセイ(292)「行って、預言せよ」


「行って、預言せよ」
 その日、ベテルの祭司アマツヤアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。ところが、主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」(アモス7:12-15)
 「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する」パレスチナ地方のごく普通の農民だったアモスを神は召し出し、神の言葉を語る預言者として送り出しました。この話を読むとき、「なぜ普通の農民なのに選ばれたのか」と思うと同時に、むしろ「普通の農民だからこそ選ばれたのだ」という気もします。
 わたし自身も、埼玉県のごく普通の農家の長男として生まれました。家畜はニワトリくらいしか飼っていませんでしたが、温室でたくさんの花を育てる園芸農家で、トマトやキュウリ、ナスなども自分の家で食べるくらいは栽培していました。子どもの頃の夏といえば、用水路でザリガニを取ったり、森に入ってカブトムシを追いかけたり、近所の小川で魚釣りに夢中になったり、そんなことをして過ごしていたのです。教会には一度も行ったことがありませんし、キリスト教のそれこそ「キ」の字も知りませんでした。
 そんなわたしが今、神父としてこうして皆さんに語りかけているということは、ある意味とても不思議です。「なぜ、取るに足りない農家の息子が」と思うからです。ですが、よく考えるとそんな取るに足りない者だからこそ選び出されたのかなという気もします。本来ならば、わたしのような者が子どもの頃から教会で育ったり、わたしなどよりはるかに立派な信仰の実践をしておられる皆さんに役に立つ何かを話すことなど、できるはずがないのです。それにもかかわらず、もし今わたしが何らかの形で神の言葉を皆さんに伝えているとすれば、それはもう神の力と言うほかありません。
 わたしが今こうして話していられること、それ自体が神の偉大さの証だと、取るに足りない者であるわたしははっきりと言うことができます。神は、きっとそのためにわたしを選び出したのでしょう。そう考えると、アモスを初めとする旧約の預言者たち、イエス・キリストの弟子たちの多くが、当時の社会では取るに足りないとされていた者たちの中から選び出されたのはもっともなことだと思います。立派な出自を持ち、英才教育を受けた人がどんなに立派に神の言葉を語ったとしても、それはその人の偉大さを示すものと取られかねませんが、取るに足りない者が力強く神の言葉を語るなら、それは神の偉大さをはっきりと表すのです。
 洗礼を受け、教会に集められたわたしたち一人ひとりに、神は福音を語る力を与えてくださいます。「いえ、わたしは取るに足りないものですから」ということは言い訳になりません。むしろ、取るに足りない者だからこそ、わたしたちは神の栄光を表すことができるのです。わたしたちの小ささ、弱さを通して、神が御自身の栄光を輝かせてくださるようにと祈りましょう。
※写真の解説…三重県赤目四十八滝にて。