やぎぃの日記(147)『ローマ法王の休日』


ローマ法王の休日


 タイトルに惹かれて、久しぶりに映画を見に行ってきた。先日から全国で公開中のローマ法王の休日だ。予告編の中に出てくる「神様、なぜわたしが」とか、「神様、お暇をいただきます」というフレーズにも親しみを感じた。
 最末端の一司祭に過ぎないわたしでも日々「なぜわたしが」と重責を嘆いたり、「お暇をいただきます」と趣味の写真を撮りに出かけたりすることが多い。まして、全世界12億のカトリック信者の頂点に立つ教皇様ともなればその責任の重みはいかばかりのものか。そんな思いがあるので、予想外の展開で教皇に選ばれた主人公が、就任挨拶の前にバチカンから逃げ出すという設定にはあまり違和感を感じなかった。
 教皇選挙がどのように行われているのか詳しいことは知らないが、「いかにもありうる」と感じさせる生き生きとした描写にも引き込まれた。枢機卿たちの態度、性格なども、かなりリアルに描かれている。よくあれだけの服を準備したものだと関心せずにいられないくらい、服装の考証もしっかりしていた。普段は雲の上の世界としか思えないバチカンが、スクリーンを通してとても身近に感じられたということだけでも大きな収穫と言えるだろう。
 ただやはり、あの、ある意味で非常に挑発的なストーリーには賛否両論があるだろう。「予定調和を破った人間賛歌」という最大限の賛辞がある一方で、教皇制度への侮辱であり到底受け入れがたいという批判もある。わたしとしては、この映画を、教皇を頂点とする聖職者たちに与えられた使命への大きな問いかけとして受け止めたいと思う。
 現代の神学においては聖職者も信徒も「神の民」としての尊厳において平等であり、聖職者が信徒の上に立つという言い方はしないが、聖職者に司牧という特別の役割が与えられていることは確かだろう。イエスは、救いを求めて集まって来た人々が「飼い主のいない羊のような様子を見て深く憐み」、骨身を削って人々の世話をした。このよき牧者イエスに倣って生きる者が、教会にはどうしても必要なのだ。
 だが、一人ひとりの人間は本当に弱い。人々の苦しみを一身に引き受け、共に担って指導していけるほどの精神力と体力を与えられた人間など、この世にいないだろう。それは数十人の世話をする司祭でも、12億人の世話をする教皇でも同じことだと思う。もしかするとこの映画の監督は、全世界の聖職者に向かって「あなたは、本当にそんなことができると思っているのか」と問いかけているのかもしれない。そうだとすれば、わたしは「確かに、わたしにはできない。しかし、神におできにならないことは何一つない」と答えたいと思う。
日経新聞の論評】 http://www.nikkei.com/article/DGXDZO43924710Z10C12A7BE0P01/
※写真の解説…サンピエトロ広場での一般謁見の様子。中央に小さく見える赤い点が、ヨハネ・パウロ二世。1994年撮影。