バイブル・エッセイ(295)イエスの手の中で


エスの手の中で
 エスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。(ヨハネ6:3-13)
 手元にあるわずかなパンで数千人の人々の空腹を満たすようにと言われた弟子たちの狼狽、何となくわかるような気がします。なぜなら、わたし自身、毎回ミサの前に同じような気持ちを味わっているからです。
 その日の聖書箇所を開いて、最初に感じるのは「果たしてこのわずか十数行の言葉で、どうやったら人々の霊的な飢えを満たすことができるのだろう」ということです。特に、よく読まれるおなじみの箇所だったり、数行しかなかったりした場合、さらにはイエス系図のような箇所だった場合、初めは「うーん」と考え込んでしまうことが多いのです。
 注解書をめくり、原文に当たり、説教集を参照しと色々な手を尽くした後、わたしはいつも命の糧であるその十数行の言葉をすっかりイエスの御手に委ねることにしてます。自分の頭で考えるのをやめて、イエスが語りたいことを、語りたいままに語っていただくのです。すると、そのあといつも不思議なことが起こります。初めは取りつく島もないように思われた朗読箇所が、イエスの手の中で何倍にも、何十倍にも大きくなりはじめるのです。
 この弟子は、実はわたし自身だ。この女性は、昨日出会ったあの人と同じ苦しみを抱えている。この状況は、いま教会が直面している状況と同じだ。そのような気づきとともにイエスの手の中で御言葉は膨らんでゆき、ミサが始まるころにはいつも何百人の人々の心を満たすのに十分なくらいの大きさになっています。御言葉のパンが、イエスの手の中で何十倍、何百倍にも大きくなるという奇跡です。
 これは、きっと皆さんが日々、聖書を読まれるときにも当てはまることでしょう。何回も読んだ箇所で、もうこの箇所では満たされないと思ったり、あまりにも簡潔すぎて取りつく島がないと思ったりして、祈るのをあきらめたくなるともあるかもしれません。そんなときには、イエスの手にすべてを委ねてしまうことだと思います。きっと、イエスは皆さんが思いもよらかったような仕方でその言葉を裂き、増やしてくださるはずです。
 聖書の言葉に限らず、神様が与えてくださるすべての恵みは、イエスの手に委ねられるとき何十倍、何百倍にも大きくなります。日々の生活の中で、「こんなにわずかな糧では足りない」と思うとき、イエスを信じてその糧をイエスの手に委ねましょう。イエスの手の中で、その糧は何十倍、何百倍にも大きくなるはずです。
※写真の解説…カトリック山口教会の祭壇とステンドグラス。