バイブル・エッセイ(298)いつまでも続く今を生きる


いつまでも続く今を生きる
 「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。」(ヨハネ6:43-50)
 信じる者は、復活のときに永遠の命を与えられるだけでなく、すでに「永遠の命を得ている」とイエスは言います。イエスを信じるわたしたちは今、この瞬間にも永遠の命をいただき、その命を生きているというのです。一体どういうことでしょうか。そもそも「永遠の命」とは何なのでしょう。
 永遠とは「いつまでも続く今」であると神学では習います。過去もなく未来もなく、全ての瞬間が今であるような状態、それが永遠だというのです。ですから、「永遠の命」とは「いつまでも続く今を生きる命」と言い換えてもいいかもしれません。
 「今を生きる」なんて、当たり前のことではないか、それのどこが恵みなんだと思う人もいるかもしれませんが、本当にそうでしょうか。わたしたちは日常生活の中で過去に縛られたり、未来を心配したりして、今を生きていないことが多いように思います。「あの時、なぜあんなことをしてしまったんだろう」という後悔に苛まれ、「自分はもうだめだ」と決めつけるとき、わたしたちは今を生きていません。過去に縛られ、過去にしがみついて生きているのです。「あの人にはあんなことをされたから、無視しよう」とか、「あれは前にやってだめだったから、今回もだめだろう」と決めつけたりするときも同じです。その人は、過去に生きているのであって、今を生きてはいないのです。
 逆に、「わたしの将来は一体どうなるんだろう」と心配し、なんとか自分の力で未来をコントロールしようと躍起になるとき、わたしたちは今を生きていません。どうなるかも分からない未来を想像し、あるかどうかも分からない先のことに翻弄されているのです。「わたしにはあんなことはできない」とか、「もしこんなことを言われたら嫌だから何もするまい」と思うときも同じです。その人は、未来に生きているのであって、今を生きているのではありません。
 過去の束縛から解放され、未来への不安を消し去って、今この瞬間に神から与えられてる恵みを全力で受け止め、喜び、感謝するとき、わたしたちは「いつまでも続く今」、「永遠の命」を生きることができます。そのために必要なのは、自分の過去を、全てを赦して下さる神の慈しみ深い手に委ね、自分の未来を、わたしたちのためにどんなときでも一番よいものを準備してくださる神の手に預けることだけです。イエスの言葉を信じるとき、わたしたちにはそれができます。その意味で「信じる者」は、すでに「永遠の命を得ている」のです。
 そのようにして、「いつまでも続く今」を生きることの模範は、子どもたちでしょう。「ふっこうのかけ橋」、教会学校キャンプと2つの行事を通して子どもたちの様子を見ていましたが、子どもたちは本当に今この瞬間を生きることの天才だと思います。何もないがらんとした体育館でも、子どもたちはたちまちのうちに笑い声と活気にあふれた天国に変えてしまいます。リーダーのすきを見つけては背中をよじ登って肩車。そうかと思えば、体育館狭しと走り回って追いかけっこをしたり、床に寝転んでじゃれあったり。子どもたちは、今この瞬間を全力で受け止め、喜び、感謝することで地上に「神の国」を実現し、「永遠の命」を生きているのです。
 かつて子どもだったわたしたちにも、同じことができるはずです。エスの言葉を固く信じて過去や未来は神様の手の中に委ね、いつまでも終わらない今を生きる「永遠の命」へと移していただきましょう。
※写真の解説…兎和野高原で行われた教会学校キャンプの一コマ。