バイブル・エッセイ(299)聖母にならう平和と宣教


聖母にならう平和と宣教
★このエッセイは、中高生会キャンプ中に行った「聖母被昇天の祭日」のミサでの説教に基づいています。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ1:44-56)
 8月15日は「聖母被昇天の祭日」であると同時に、「終戦記念日」であり、同時に「フランシスコ・ザビエルの日本上陸記念日」でもあります。偶然のようにも思えますが、この3つのことが同じ日に祈念されるのにはとても深い意味があるとわたしは思っています。
 まず「聖母被昇天の祭日」の意味を考えてみましょう。この祭日は、地上での命を終えた聖母マリアが魂も体も天に引き上げられ、イエスによって開かれた「天国の門」を一番最初にくぐったことを記念するものです。このことは聖書に書いてありませんし、現代人にはちょっとおかしな話にも聞こえるかもしれません。この信仰は、一体どこから生まれてきたのでしょう。
 出発点は、マリアがイエスを生んだことにあります。イエスは人間であると同時に神ですから、マリアはまさに「神の母」です。「神の母」になるほどの人が、わたしたちと同じように罪に汚れているはずはありませんね。マリアは、生涯罪の汚れから守られていたに違いないと思います。この確信がマリアの生まれる前にまで及ぶとき、マリアは人間が誰でも持って生まれてくる原罪からも守られていたという「無原罪の御宿り」の信仰になり、死んだ後に及ぶとき、マリアは罪の結果である死から解放され、魂も体も天に挙げられたという「聖母被昇天」の信仰になるのです。聖書には書いていなくても、人間の常識からは外れていても、これは当然のことと言っていいでしょう。
 では、そもそもなぜマリアはイエスを生む者として選ばれたのでしょう。マリアのどこが特別だったのでしょうか。マリアの特別さは、自分を「身分の低い、主のはしため」と見なす謙遜さ、そして「力ある方」にすべてを委ねる信頼にあったように思います。マリアほど謙遜で、マリアほど神の全能の力を信頼していた人が他にはいなかった。だからこそ、マリアはイエスの母、「神の母」として選ばれ、「無原罪の御宿り」によって原罪からも守られ、「被昇天」によって死からも守られたのです。
 平和を実現するためにも、ザビエルにならって日本で福音宣教しようとするためにも、このマリアの謙遜さと神への信頼が鍵になるような気がします。戦争の原因はなんでしょう。それは、国と国がお互いに自分たちこそ絶対に正しいと思いこみ、自分たちの思い通りの世界を作るために暴力をふるうことです。戦争の原因は、傲慢と自分たちの力への過信だと言っていいでしょう。それに打ち勝って平和を実現するためには、聖母マリアにならって謙遜を身に着け、自分の力ではなく神の力に信頼を置くことだと思います。
 キリスト教以外の宗教を信じる人の方が圧倒的に多い日本のような国で福音宣教をするためにも、謙虚さと神の力への信頼がどうしても必要だと思います。自分たちだけが正しいという傲慢さは、多くの人々の反感を買うでしょう。マリアにならって、正しいのはただ神だけであり、自分たちは神の「はしため」にすぎないとしっかり自覚する必要があります。また、自分たちの力で福音宣教しようとすれば、うまくいかないことに絶望してあきらめたくなるかもしれません。どんなにうまくいかなくても、神の力を信じて全力を尽くす人だけが、日本で福音宣教を続けることができるでしょう。
 「聖母被昇天の祭日」、「終戦記念日」、「フランシスコ・ザビエルの日本上陸記念日」が同じ日であることには、聖母マリアにならって平和を実現し、日本で福音を宣教しなさいという神からのメッセージと思えてなりません。このメッセージしっかり受け止め、聖母マリアの謙遜さと神への信頼をしっかり胸に刻みましょう。
※写真の解説…中高生会キャンプが行われた奈良県御杖村の山荘、レーベンス・シューレから見た青空。