バイブル・エッセイ(300)命を育てるパン


命を育てるパン
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ6:51-55)
 「命のパン」である「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」とイエスは言います。「麦のパン」はわたしたちの空腹を満たし、体を育てますが、神様から与えられた命を輝かせて生きるためには魂の飢えを満たし、心を育てる「命のパン」がどうしても必要なのです。この夏、わたしは「ふっこうのかけ橋」に始まって教会学校、中高生会と3つのキャンプに参加し、今日も大阪教区の侍者錬成会に顔を出してきました。その中で、確かにここに「命のパン」があると感じた出来事をいくつかご紹介したいと思います。
 山奥の山荘で行われたあるキャンプでのこと。バーベキューやキャンプファイアーの準備、風呂焚きとリーダーたちがてんてこ舞いしているのを見ていた一人の男の子が、思いがけないことを言いました。「ぼくが風呂焚きを引き受ける」と言うのです。風呂焚きは暑くて大変な仕事。やんちゃないたずら坊主で、中学生になっても「小学7年生」と呼ばれている彼の口からそんな言葉がでたのは本当に驚きでした。きっと、リーダーが自分たちのために必死で働いてくれているのを見て、いても立ってもいられなくなったのでしょう。
 「命のパン」を見つけたのは、子どもたちだけではありません。今日、侍者錬成会に顔を出して本当に驚きました。教区行事とは関係のないはずの六甲学院生、「ふっこうのかけ橋」に参加していた彼らがそのまま6人もリーダーとして参加していたのです。最初は学校の宿題ということもあって半ば義務でやって来た彼らでしたが、今回は自分たちから率先して3日間を捧げたとのこと。子どもたちの先頭に立って遊ぶ彼らの姿は、本当に輝いていました。
 お母さんたちも「命のパン」を見つけたようです。「ふっこうのかけ橋」の最終日、福島からの参加者を代表してあいさつしてくれたお母さんは涙ながらにこう言いました。「皆さん、それぞれに自分の生活があるのに、わたしたちのためにこんなによくして下さってありがとう。子育てに疲れ、原発事故の放射能の中で嘆いていたけれど、皆さんのおかげで優しくなれたような気がします。」真実だけが持つ静かな力がこもったその言葉に、彼女だけでなく会場にいた多くの人々が涙を流しました。
 自分の生活を削り、命を削るようにして差し出した時間や力は、神様の手の中で「命のパン」に変えられます。わたしたちの魂の飢えを満たし、心を育てることができるのは、そのようにして生まれた「命のパン」だけなのです。子どもも、リーダーも、お母さんたちも、キャンプを通してこの「命のパン」を見つけ、大きく成長していきました。
 エスがご自分の命さえも差し出すほどの愛によって準備してくださった「命のパン」によって満たされ、成長したなら、今度はわたしたちが自分の生活、自分の命を差し出して人々のために「命のパン」を準備する番です。空腹を満たし、体を養う食べ物や飲み物だけでなく、魂の飢えを満たし、心を養う「まことの食べ物、まことの飲み物」を差し出せる人になれるよう祈りましょう。
※写真の解説…愛徳学園で行われた、カトリック大阪大司教区侍者錬成会の一コマ。