バイブル・エッセイ(301)「あなたをおいて、誰のところへ」


「あなたをおいて、誰のところへ」
 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:60-69)
 「あなたをおいて、誰のところへ行きましょう。」わたしたちは、誰かに向かってそう言い切ることができるでしょうか。そう言い切ることができるほど強い愛の絆を、わたしたは以前、実習先の老人ホームで見たことがあります。
 その老人ホームは、特養と呼ばれる介護度の高い方々のためのホームで、痴ほう症を患っている方が何人か入っておられました。その中に、さほど高齢ではないのですが痴ほう症が進み、ときどき叫んだり暴れたりするご婦人がいました。職員の方たちをてこずらせるそのご婦人のもとには、毎日、ご主人が通ってきておられました。何時間もそばに付き添い、トイレの世話をしたり、本を読み聞かせたりかいがいしく世話をするご主人に、わたしはあるとき「毎日、毎日、大変ですね。お疲れがでませんように」と声をかけました。するとご主人はぼそっと一言、「いや、こいつには苦労をかけましたから」と答えられたのです。
 このご夫婦の間にどんなことがあったのかは知りません。しかし、わたしがはっきり感じたのは「このご夫婦は、二人でたくさんの試練を乗り越えながらここまでやって来られたのだな」ということでした。励ましあい、支えあいながら長い年月を生きる中で、互いが互いの一部になるほど固く結ばれたお二人。そんな相手をおいてどこへも行くことができない御主人は、来る日も来る日も、ただ黙々と老人ホーム通いを続けておられたのです。まさに、「あなたをおいて、誰のところへいきましょう」というほどの愛だと思います。
 夫婦の間だけでなく、イエスとの間にもそのくらい強い愛の絆を結んでいきたいと思います。エスとの愛の絆も、夫婦の場合と同じで、イエスと共に幾多の試練を乗り越え、共に年月を重ねていく中で強められていくものでしょう。日々、聖書を開き、イエスの言葉に励まされ、イエスに支えられながら生きていくこと。イエスが担った試練の十字架を、イエスと共に担って生きていくこと。そのような積み重ねが、わたしたちの心に「あなたをおいて、誰のところへゆきましょう」、「あなたなしでは生きていくことができません」というほどのイエスへの愛を育てていくのです。
 どんな試練にあっても決して愛する妻を見捨てることがなかった夫のように、どんなときでもイエスに向かってきっぱりと「あなたをおいて、誰のところへゆきましょう」と言えるほどの信仰を持つことができるよう、今日もイエスと共に生きる一日を始めてゆきましょう。 
※写真の解説…軽井沢、内村鑑三記念教会にて。