バイブル・エッセイ(305)寛容、忍耐、赦しの証


寛容、忍耐、赦しの証
 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。(一コリ6:5-9)
 「そもそも、あなたがたのあいだに裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けだ」とパウロは言います。主が、性格も考え方も社会的背景も、何もかもが違うわたしたちを一つの教会に集めたのは、わたしたちが寛容や忍耐、赦しの模範によって、神の愛を証するためだからです。もしわたしたちが互いの違いを受け入れられず、我を張って争いあうなら、それは教会の自己否定に他ならないのです。
 もし教会が、人間によって組織された「仲良しクラブ」であれば、収入、学歴、能力などの入会資格を設けて同質の人ばかりを集め、その中で交流を楽しむことができたでしょう。そのクラブに所属することで優越感に浸ったり、交流を通して利益を得ることだってできたかもしれません。
 しかし、神によって集められた教会には、世間的な意味での入会資格は一切ありません。イエス・キリストを信じる心さえあれば、誰でも受け入れられるのが教会なのです。教会に所属することによって、わたしたちは優越感に浸るどころか、神の前で自分がどれほど弱く、無力な罪人であるかを味わうことになります。世間的な意味での見返りが望めないばかりか、むしろ忍耐や寛容、赦しの実践によって自分自身をすべて神に差し出すことが求められます。
 神があらゆる人々を一つの教会に集めたのは、「仲良しクラブ」を作るためではなく、わたしたちが性格や考え方、社会的背景など通常は乗り越えがたいと思われるような壁を軽々と乗り越えることで、神の偉大さを証するためなのです。もし教会の中に小さな「仲良しクラブ」がいくつもできて、それらが互いに争いあうようなことになれば、教会に集まる意味が全くなってしまいます。教会に集められた目的を忘れることなく、寛容や忍耐、赦しという言葉を、まず教会の中で実践することができるように、ありえない一致を実現することで神の愛の偉大さを証することができるように、神の助けを願いましょう。
※写真の解説…長野県軽井沢町、離山の山頂から見た雲海。