バイブル・エッセイ(308)愛は願うもの


 愛する皆さん、ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあります。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。(ヤコブ3:16-4:3)
愛は願うもの
 あなたがたのあいだに戦いや争いがあるのは「あなたがた自身の内部で争い合う欲望」が原因ではありませんか、とヤコブは問いかけています。偉くなりたい、お金や権力、地位を手に入れて尊敬されたい、そのような思いがせめぎ合う心からいらだちや怒り、嫉妬、猜疑心が生まれ、やがて憎しみや暴力、争いへと発展していく。ヤコブはそのような人間の心の動きを指摘しているようです。
 人間の最も根源的な欲望は、誰かから認められ、尊敬され、受け入れられたい、誰かから愛されたいということかもしれません。ある人は必死に勉強していい大学に入り、いい会社に入ることでその望みをかなえようとしますし、ある人はお金を稼いで大きな家に住み、高級外車に乗ることでその望みをかなえようとします。しかし、愛というのはそのようにして何かを手に入れることで、自分の力で勝ち取ることができるものでしょうか。
 いわゆる「エリート」になったり、大金持ちになったりすることで、認められ、尊敬され、受け入れられて、何か愛に似たものを手に入れることはできるでしょう。しかし、そのとき認められ、尊敬され、受け入れられているのは「エリートである〇〇さん」であり、「大金持ちの〇〇さん」であって、決してありのままのその人自身ではないのです。多くの人は「愛に似たもの」を愛と勘違いしますが、その人の一番奥深い望みはいつまでたっても満たされないままです。「愛に似たもの」を守るためには、自分が手に入れた地位や財産を守らなければならず、そこから不安やいらだち、競争心や嫉妬、ライバルへの怒りや憎しみなどが生まれてきます。「愛に似たもの」は、その人を幸せにしないばかりか、周りの人を不幸にさえしていくのです。
 わたしたちが欲するものは、自分の力で勝ち取るものではなく、「願い求めて与えられる」ものだとヤコブは言います。愛とは、力によって威圧して手に入れるものではなく、愛を求める無力な自分を相手に差し出し、相手から与えられるものなのです。さらに、求める動機は「自分の楽しみのため」であってはならないとヤコブは言います。愛は、お互いの幸せを願う人たちの間にだけ実現するものだからです。相手の幸せを願い、相手のために自分を差し出す人だけに愛が与えられるのです。
 それは、人間のあいだだけでなく、神と人間のあいだでも同じことでしょう。立派な自分になることで神から愛されようというのは、神の愛を自分の力で無理やりに手に入れようとするようなものです。自分の楽しみのために愛されたいと願うのは、神を利用するようなものです。ありのままの無力な自分を差し出し、愛を願い求める人、神の思いを大切にし、神に全ての信頼を置く人にこそ、神は愛を与えてくださるでしょう。本当の愛は、自分の力で手に入れるものではなく、願い求めて与えられるもの。自分のためにではなく、相手のために願うもの。そのことを、しっかりと胸に刻みましょう。
※写真の解説…六甲山、青谷道にて。