バイブル・エッセイ(309)誰のための奇跡か


誰のための奇跡か
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(マルコ9:38-40)
 自分たちに従わず、勝手にイエスの名を使って悪霊を追い出している人々を見て、弟子たちは腹を立てました。きっと、十二使徒である自分たちだけにその資格があると思っていたからでしょう。9章の前の方を読むと、弟子たちが悪霊を追い出すのに失敗した場面や誰が一番偉いかを言い争う場面が出てきますから、悪霊を追い出して人々に感謝される人々への嫉妬もあったかもしれません。神の御旨を地上に実現しようとして働く人々の間で、このようなことは起こりがちです。
 たとえば、司祭の前に行って他の司祭を褒めちぎったとしましょう。「〇〇神父様のお説教はいつも聖霊に満たされてすばらしい」とか、「□□神父様が来てからあの教会にはたくさんの人が詰めかけている」とか、そんなようなことです。司祭からは次のような反応が考えられると思います。
 ある司祭は、「あの神父様を通してイエス・キリストがたくさんの人々の魂に触れ、地上に神の栄光があらわされています。本当にすばらしいことです」と言って、一緒に喜んでくれることでしょう。そのような司祭と出会えた皆さんは幸せです。
 ですが、いつもそんな反応が返ってくるとは限りません。ある司祭は皆さんの話を聞いているうちに次第に顔を曇らせ「あの神父は口が達者だけど、あんなやり方は本当の福音宣教ではない。目立ちたいだけの売名行為だ」などと悪口を言い始めるかもしれません。以前、司祭年に行われた若者へのアンケート調査の回答の中に、司祭のイメージとして「他の司祭を褒めると、その司祭の悪口を言い始める人」というのがありましたから、このようなことは実際起こりがちなのです。
 この二つの反応の違いは、一体どこにあるのでしょう。他の司祭が褒められたのを聞いて喜ぶ司祭は、その司祭を通してこの地上に神の愛が現れ、神の栄光が輝くことを心から喜んでいます。多くの人々がその司祭を通して救いに招かれるのを、本当にうれしく思っているのです。それに対して、悪口を言い始める司祭は、神の栄光や人々の救いが実現したことではなく、他の司祭が人々から賞賛を浴びていることだけを見て妬んでいます。口では「神の栄光」と言いながら、実は心のどこかで自分の栄光を求めているのでしょう。
 これは、司祭の間だけで起こることではありません。信徒の皆さんのあいだでも、同じようなことが起こっているのを見かけます。他の信者さんが集会祭儀司式者や聖体授与の臨時の奉仕者などとして活躍しているのを妬んで、悪口を言う人がいます。司祭がある信徒の熱心な信仰を褒めると、妬んでその信徒を批判し始める人もいます。そのような人はやはり、地上に神の栄光や人々の救いが実現したことではなく、他の信徒が自分よりも評価されているということだけを見ているのだろうと思います。
 司祭や信徒が互いに争って妬み合う姿は、それ自体としてとても残念なことであるばかりか、教会に来たばかりの人にとっては大きな躓きです。自分の栄光ではなくただ神の栄光だけを求める信仰、他の人を通して実現する神の救いの業を心から喜べる信仰を与えてくださいと、神に祈りましょう。
※写真の解説…奥日光、中禅寺湖にて。