バイブル・エッセイ(310)不完全さから生まれる愛


不完全さから生まれる愛
 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼうまさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記2:18-24)
 なぜ男女は父母を離れて結婚し、一つに結ばれるのか。それは、男と女がもともと一つの体から造られたからだと創世記は説明します。男と女はもともと一体であり、男女が結婚するのは元の姿に戻るためだということでしょう。
 ここに、わたしたち人間の愛の秘密が隠されているような気がします。骨を抜き取られた男も、その骨から造られた女も、それぞれ不完全な存在にすぎないのです。だからこそ男と女は互いに惹かれあい、愛し合うのです。愛し合い、一つに結ばれることによってのみ、わたしたちはもともとの姿、人間の本来の姿に戻って幸せに生きることができます。
 この不完全さの自覚こそが、わたしたち人間を結び付ける鍵になると思います。もし自分が完全な人間だと思い込み、「あの人はなぜわたしの思い通りにしてくれないのだ」とか、「あの人は何もわかっていない」と思うようになれば、結婚の絆は危機にさらされるでしょう。自分一人でも幸せに生きていけるけれど、相手がいれば便利だというくらいの思いから生まれる絆は、いつ切れてしまってもおかしくないほど弱い絆だと思います。
 ですが、自分は不完全な者であり、自分一人では何も正しく考えることができない、結ばれていなけれは一日たりとも幸せに暮らすことができないという自覚があれば、わたしたちはいつまでも円満に結婚生活を続けていくことができるはずです。相手は自分にとってなくてはならない、誰よりも大切な存在だと思う愛は、自分が一人では何もできない、不完全なものに過ぎないという自覚からこそ生まれると言っていいでしょう。
 これは、夫婦だけに限らないと思います。わたしたち人間は、男にせよ女にせよ不完全な存在にすぎません。互いに助け合い、励まし合い、愛の絆の中で一致するときにのみ本来の姿を取り戻し、幸せに生きることができるのです。その意味で、まさに人間は愛し合うように創造された、愛し合うために生まれてきたと言ってもいいでしょう。
 人間は創造の初めから不完全なものであり、そのことを認めて愛し合うことによってしか幸せになれない。そのことをしっかりと心に刻んで、謙遜な心で互いに愛し合い、誰もが本来の姿で生きる世界、「神の国」をこの地上に実現していくことができますように。
※写真の解説…東京都立川市昭和記念公園のコスモス畑。