バイブル・エッセイ(311)無力さへの招き

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無力さへの招き
 エスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:17-21)
 永遠の命を得たいと心から望みながら、財産への執着を捨てることができず、イエスのあとに従うことができない青年。彼の姿は、まったく他人事とは思えません。わたし自身も同じような体験をしたことがあるからです。
 マザー・テレサから勧めれたのをきっかけに、司祭への道を考え始めた頃のことです。マザーと同じように修道者として生きる道を選ぶならば、清貧の誓いを立て、全財産を放棄しなければなりませんでした。この青年と違って大した財産を持っていたわけではありませんが、それでもわたしは大きく躊躇せざるを得ませんでした。財産があるからこそ自由に旅行もできるし、おいしい物を食べたり、好きな服を買ったりすることもできるのです。財産を放棄するというのは、そのような自由や楽しみを放棄することに他なりません。
 あるときわたしは、祈りの中で自分にこう尋ねました。「わたしが心の底から望んでいることは、今のようにあちこち放浪し、おいしい物を食べ、好きな服を着る生活だろうか。それとも、マザーと共にイエスの後に従い、苦しんでいる人々に神の愛を届ける生活だろうか。」答えは、はっきりと後者でした。わたしは、前者の生き方にはもううんざりしていたのです。
 こうしてわたしは清貧の誓願を立て、一切の財産を放棄しましたが、前よりも不自由になったとか不幸になったとは全く感じません。むしろ、さまざまな執着から解放されて自由になりました。何よりも大きいのは、以前よりもイエスと深く結ばれて、神の愛の中で喜んで生きる幸せを与えられたということです。今わたしには頼るべき財産がありませんから、すべてはイエスに頼るより他ないのです。ほとんどの場合、イエスはわたしが必要とする以上に豊かに与えてくださいます。
 大切なのは、財産を捨てるということではありません。もし財産を捨てたことをわたしが皆さんに誇り、傲慢になるならば、そのような清貧はまったく意味がないでしょう。大切なのは、神の前でまったく無力になることだと思います。自分は無力な罪人に過ぎず、本当に幸せに生きるためには神に頼る以外にない。そのことを悟って、ただ神により頼み、イエスと深く結ばれる。それこそが大切なことであって、財産を捨てるというのはそのような信仰に到達するための一つの手段にすぎません。
 実際に財産を捨てることで無力になるようにと招かれる人もいれば、財産を持ちながら無力になるようにと招かれる人もいます。いずれにしても、大切なのは地上の被造物や自分の力により頼むのをやめ、無力さの中でただ神をより頼んで生きるということです。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」というイエスの言葉を、わたしたち自身に向かって発せられた、無力さへの招きとして受け止めたいと思います。
※写真の解説…コスモスの花と蜜蜂。万博記念公園にて。