バイブル・エッセイ(312)すべてのものの内におられる神


すべてのものの内におられる神
 主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エフェソ4:1-6)
 父なる神はすべての被造物の内におられ、父なる神の霊に結ばれてすべてのものは一致している。この感覚は、イエズス会創立者、聖イグナチオが『霊操』と呼ばれる30日間の祈りのプログラムの最後に置いた「愛を得るための観想」の境地にとても似ています。
 聖イグナチオは、「愛を得るための観想」の中で、全ての被造物の内に住み、全ての被造物を生かしている神の存在を感じ取るようにと勧めています。神が存在をやめれば、すべての被造物はその瞬間に消え去るというくらい、被造物の存在と神の存在は一つのものだというのです。自分自身を含む全ての被造物の内に躍動する神の霊を感じ取り、その恵みに目を開くことこそがこの観想の要と言っていいでしょう。
 この観想は、『霊操』の最後に置かれて、黙想の家での祈りとこれから戻っていく現実の世界をつなぐ橋の役割を果たすものです。何日ものあいだ黙想の家に籠り、静かな聖堂でご聖体を前にして祈っているときに神の存在を身近に感じるのは、ある意味で当然のことでしょう。しかし、もしその体験だけで終わるなら、黙想の家を出たとき、神の存在は再びわたしたちから遠ざかってしまいます。数日のうちに再びあわただしい現実に呑み込まれ、すべて元の木阿弥ということにもなりかねません。そうならないために、聖イグナチオは「愛を得るための観想」を『霊操』の最後に置いたのです。
 もしわたしたちの心の目が開かれ、すべての被造物の内に住んでおられる神を見つけ出すことができれば、世界中どこにいてもわたしたちは聖堂にいるときと同じように神の存在を身近に感じながら祈ることができるはずです。わたしたちを取り囲むすべての被造物の中に満ち溢れる神の愛を感じ取り、その温もりに包まれて祈ることもできますし、目の前にいる誰かの存在の深みに神の存在を感じながら祈ることもできるでしょう。それだけではありません。父なる神は、被造物の一つであるわたしたち自身の内にも必ずおられます。もしわたしたちがわたしたち自身としっかり向かい合うならば、心の奥底から絶えずわたしたちに語りかけようとしておられる神の存在に気づくでしょう。すべての被造物の中に神の存在を見つけ出すとき、世界中のあらゆる場所が神と出会うための聖堂となり、わたしたちは日常生活のただ中にあって神を観る者、観想者として生きることができるようになるのです。そうなれば、黙想の家から離れ、日常生活に戻っても、神の存在がわたしたちを離れていく心配は一切ありません。
 自分自身を含む、すべての被造物の中に神を見出すとき、わたしたちは自分の外側からも内側からもあふれだす神の恵みの中に呑み込まれていきます。そして、大いなる恵みの海の中ですべての被造物と一つに結ばれていくのです。父なる神は「すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」と言ったパウロは、まさにこの恵みの世界に生きた人だったと言っていいでしょう。わたしたちも祈りの中でその世界へと引き上げていただくことができるよう、心の目を開いていただけるよう、切に願い求めましょう。
※写真の解説…山本川の水辺に咲いたミゾソバの花。広島市安佐南区