バイブル・エッセイ(314)祝福された死


バイブル・エッセイ(314)祝福された死
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:37-40)
 「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」だとイエスはおっしゃいます。確かに、わたしたちは十字架上の死において頂点に達するイエスの生涯を見るとき、自分の命さえも恐れることなく神にお返しし、永遠の命に入っていくことができるでしょう。イエスは、その模範をわたしたちに見せ、信じさせるためにこの世に来られたのです。
 死は、誰にとっても直観的に恐ろしいものです。体は火葬場で焼かれ、骨は暗い地下に埋められて二度と太陽を見ることもない。そんな死に直面すると、わたしたちは恐れを感じずにいられません。しかし、その死をわたしたちの愛する人が先に味わい、立派に死んでいったことを思い出すと、その恐れは弱まります。癌の痛みの中にありながら最後まで家族を労り、安らかな表情で死を受け入れた夫、「心配しなくていいのよ、ただ故郷に帰るだけだから」と言い残して静かに息を引き取ったおばあさん、そのように死んでいった人たちのことを思い起こすとき、わたしたちは、死という現実を受け止める勇気と力を与えられるのです。
 そのような多くの人々の模範の中で、際立っているのはイエスの十字架上の死でしょう。十字架上で、肉体的な苦しみはもちろん、人間の心にとって一番ひどい苦しみである、神から見捨てられる苦しみまで味わいぬいてイエスは死んでゆかれました。人間が味わうあらゆる痛みや恐れを味わい尽くしながら、それでも神の愛を信じて死を受け入れたのです。そして、復活の栄光、永遠の命へと移されたのです。そのことを思い起こすとき、わたしたちは死を、そして死に伴うあらゆる苦しみを乗り越えていく勇気と力を与えられるでしょう。
 死や人生の大きな困難に直面して、もしかするとわたしたちも「わたしは神から見捨てられた。自分の人生はまったく無意味だった」という恐ろしい苦しみを味わうかもしれません。しかし、そのときには「この苦しみを、イエスも味わわれたのだ」ということを思い起こしましょう。そうすれば、わたしたちはイエスと共にその苦しみを乗り越えることができるはずです。暗黒の中に吸い込まれていくような死に、恐れを抱くこともあるかもしれません。しかし、そのときには「イエスも、わたしたちへの愛のためにこの暗闇の中に飛び込んでゆかれたのだ」と思いましょう。そうすれば、わたしたちはイエスと共にその闇に飛び込むことができるはずです。そのようにしてイエスと共に苦しみ、イエスと共に死ぬとき、わたしたちはイエスと共に十字架上の贖いの業に加わり、イエスと共に復活の栄光に挙げられるでしょう。
 エスが十字架上で死なれたことで、死の苦しみや恐怖はそのとげを抜かれ、恐ろしいものではなくなりました。むしろ、イエスが十字架上で苦しみ、死んでゆかれたことによって、死の苦しみや恐れは祝福されたと言ってもいいでしょう。なぜなら、死の苦しみや恐れさえも、わたしたちをイエスに結びつける絆となったからです。
 神がイエスを地上に遣わし、十字架上で死の苦しみや恐れさえも共に生きてくださったことで、わたしたちは死を乗り越え、永遠の命へと移っていく勇気と力を与えられました。この恵みに感謝し、苦しみの中にあっても、喜びの中にあってもイエスと固く結ばれてこの人生の旅路を歩んでゆきましょう。
※写真の解説…京都、東福寺の境内にて。