やぎぃの日記(157)こいずみクラスより〜生活の中で死を生きる


こいずみクラスより〜生活の中で死を生きる
 カトリック六甲教会信徒で音楽家のこいずみゆりさんが、毎月第2、第4の火曜日に三ノ宮・女子パウロ会書店で行っているキリスト教入門講座に、久しぶりに出席することができた。今回のテーマは、11月2日の「死者の日」にちなんで、キリスト教の死生観。信徒としての日々の生活体験に根差したお話が多く、とてもよい学びのときになった。今回も、その講座の中から印象に残った言葉をいくつかご紹介したいと思う。
「今朝、家の前の掃除をしていたときに、ヘビーカーを押したお母さんが通りかかりました。そっとベビーカーの中を覗くと、中の赤ん坊の顔はひどいアトピーで真っ赤。お母さんの顔を見ると、お母さんの顔も同じようにただれていました。わたしは胸が痛くなって思わず『この人たちの痛みをどうぞ取り去って下さい』とその場で祈らずにいられませんでした。ですが、しばらくして考えてみたのです。イエス様なら、こんなときどう祈っただろうと。イエス様ならばきっと『この親子の痛みを、わたしに担わせてください。この親子と共に苦しませてください』と祈ったのではないでしょうか。」
「イエスが先にあらゆる苦しみを乗り越えてくださったから、わたしたちは安心して苦しむことができます。イエスが先に死んでくださったから、わたしたちは安心して死ぬことができます。苦しみの先に何があるか、死の向こう側に何が待っているのか、イエスは身を以てわたしたちに教えてくださいました。」
「日々の生活の中で、小さな犠牲を通して自分に死ぬ訓練を繰り返しているうちに、どれだけ自分に死んでもイエスが共にいてくださるから何の心配もないという安心と喜びが全身で感じられるようになっていきます。それは復活の喜びの先取りであり、冬の空気のように肌には寒いけれども心をすがすがしく清めてくれる喜びです。」
リジューのテレジアは、冬のあいだお湯の入った桶ではなく冷たい水の桶で洗濯し、夏の間は逆にしていました。他の姉妹が苦しまないように、自分が身代わりなったのです。その他にも、他の姉妹から敬遠されている姉妹に積極的に近づいたり、人が嫌がる仕事を買って出るなどして、日々の生活の中で小さな犠牲を積み重ねていきました。だからこそ、やがて24歳で死を迎えたときにも、死を安心して受け入れられたのです。神の手に自分を委ね、自分に死ぬことは彼女の日常の一部であり、肉体の死はその延長線上の出来事に過ぎなかったからです。」
「父の葬儀のときに、悲しみの涙にくれる甥たちを励ますためにある司祭が『おじいちゃんのように、自分のことよりも先に人のことを考えて生きる人になれば、君たちの中におじいちゃんが生きているんだよ』と言いました。すると甥たちは泣き止み、おじいちゃんと一緒にいたいという思いから、以前よりも周りの人々を気遣うようになったのです。」
※写真の解説…燃え上がるようなモミジの紅葉。有馬にて。