バイブル・エッセイ(321)「神の国」の地平


神の国」の地平
 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:1-6)
 救い主が来られるとき、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」とイザヤは預言しました。救い主はわたしたちの心に来てくださる方ですから、この地形はわたしたちの心の中にある地形と考えてもいいかもしれません。主が来られるとき、わたしたちの心の地平に大きな変化が引き起こされるのです。
 今わたしたちの心の中に広がる地平は、家族や友人、同僚など、身の回りの人間との関係によってでこぼこが刻まれた地平です。大きくへこんでいる谷は、劣等感という名前で呼ばれています。人間社会を支配するこの世の価値観の中で「家柄が悪いから」、「貧しいから」、「学歴がないから」と言ったようなことに引け目を感じ、自らを劣ったものと見なすときにこの谷が生まれます。
 劣等感の谷があるとき、その近くにはきっと山があるでしょう。劣等感を抱えただけでは生きていくのが難しくなりますから、劣等感を抱えた人は、自分を励ますために劣等感の深さと同じくらいの高さの優越感の山を築き上げることが多いのです。「自分は家柄は悪いけれども、こんなにお金持ちになった」、「容貌では劣るけれども、こんなに学歴がある」、そのように自分に言い聞かせるうちに、心に高い山が出来上がっていきます。
 劣等感は、その周りにさらに細かなひだを作っていきます。自分が引け目を感じていることについて、自分よりもさらに劣っている人たちに優越感をおぼえたり、勝っている人たちに対して嫉妬を感じたりするのです。優越感も同じです。自分が優越感を持っていることについて、自分よりもさらに優れている人たちに対して劣等感を感じたり、劣っている人たちを侮蔑する心が生まれたりします。このようにして、人間との関係の中で、わたしたちの心に複雑な地形が刻まれていきます。
 救い主が来られるとき、このようにして刻まれた心の地形が、すべて新たにされます。救い主の到来は、言ってみれば恵みの大洪水のようなものです。わたしたちの弱さや傷を暖かく包み込む命の水、恵みの水は、心の谷を隅々まで満たし、すべての谷やへこみを埋めていくでしょう。恵みの水は「ありのままのわたしを、神は愛してくださっている」という確信を心の隅々にまで行き渡らせ、心を神の愛の温もりで満たしてゆきます。
 豊かに押し寄せる恵みの水によって、思い上った心の山も掘り崩されてゆくでしょう。圧倒的な神の愛をに直面して、自分がこれまでこだわってきたものなど全く取るに足りないと気づくからです。恵みの水にひたされたとき、わたしたちは「この世に生きとし生けるすべての命が限りなく尊い」ということに気づき、自分が誰かより優れていると思うことの愚かさを思い知るのです。
 恵みの大洪水が通り過ぎたあとに残るのは、劣等感の谷も優越感の山もない、神の愛に満たされたなだらかな大地です。その大地で、わたしたちは兄弟姉妹と共に手を取り合いながら、心の底から神に感謝と讃美を捧げることができるでしょう。救い主は、今まさにわたしたちの心に来ようとしておられます。喜びに胸をはずませながら、心の地平が新たにされるその時を待ちましょう。
※写真の解説…六甲教会聖堂のステンドグラス。