祈りの小箱(8)ケンピス『人生の十字架』


トマス・ア・ケンピス『人生の十字架』

 先日、広島市にあるイエズス会の黙想の家で8日間の黙想をしていたとき、黙想の合間にトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』を読み直していました。黙想のあいだは祈りに徹するべきで、読書はあまり好ましくありませんが、聖イグナチオは聖人伝の類やこの本だけは読んでもいいと『霊操』の中に書き記しています。聖イグナチオにとって、『キリストに倣いて』はそのくらい特別な意味を持った本だったのです。
 この本にはケンピスの修道者としての人生の知恵が散りばめられており、読むたびごとに深く考えさせられるのですが、今回ご紹介する言葉は、その中でも特に印象に残るものの一つです。先日の黙想のとき、この言葉は特にわたしの心に深く響きました。きっと皆さんも、読んではっとさせられるのではないでしょうか。
 わたしたちは、一人ひとりが神から人生で背負うべき十字架を与えられています。その十字架は、使命と言い換えてもいいでしょう。例えば、ある人には主婦、ある人には会社員、ある人には司祭として生きる使命が、神から与えられます。もし、わたしたちがいやいや受け取るなら、使命はどんどん重みを増していきます。ですが、神様がわたしたちに与えてくださった使命ですから、それ以外に生きる道はないのです。
 「どうせ担う使命であるなら、神様のために喜んで担いなさい。」それがケンピスの言いたいことでしょう。喜んで担うとき、わたしたちが背負っている荷物は軽く感じられるものです。例えば、登山のときみんなの分のお弁当を運ぶ役割を与えられたとしましょう。もし「重い荷物だな。なんでわたしが運ばなければならないんだ」と思っていやいや運ぶなら、お弁当はとても重く感じられると思います。ですが、「頂上についたときに、みんなで食べるためのお握りだ。みんなの喜ぶ顔が楽しみだな」と思って運べばどうでしょう。お弁当の重さは、きっとあまり感じられなくなるはずです。「この使命を果たすのは、神様を、そしてみんなを喜ばせるためなのだ」ということを忘れなければ、きっとわたしたちも使命の十字架を軽く運ぶことができるに違いありません。
 神様が与えてくださった使命の十字架は、わたしたちにピッタリの大きさと重さを持ったものです。ですから、もし投げ出してしまえば、次に見つける十字架はわたしたちにあまり合わない、もっと重く感じられるものであるに違いありません。この十字架を喜んで受け取り、軽々と運んでゆきたいものだと思います。
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