バイブル・エッセイ(324)使っていただく喜び


使っていただく喜び
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1:39-45)
 神の大いなる力によって救い主の母となる使命を与えられたマリアと、同じように神の大いなる力によって洗礼者ヨハネを胎に宿したエリザベト。この2人が出会ったとき、彼女たちの心を満たした喜びが、イエス・キリストの誕生を祝う世界で最初の賛美の祈りとなって口からほとばしり出ました。2人の心を満たした喜び、胎内の子を躍り上がらせた喜び、それは一体どのような喜びだったのでしょう。
 祈りの中でこの場面を味わっているうちに、ふと思い出したのは今から6年ほど前に神父になる許可をいただいたときのことです。10年あまりに及ぶ勉強の期間を終え、厳しい審査を受けてついに神父になる許可をいただいたときにわたしの心を満たしたのは、これまでに味わったどんな喜びとも違う不思議な喜びでした。
 これまでに味わった大きな喜びには、例えば大学に合格したときの喜びがあります。合格発表の掲示板に自分の番号を見つけたとき、わたしは「やったー」と叫び、文字通り跳ね上がって喜びました。長い努力が報われて、ついに念願の大学に入ることができたからです。
 それはそれでとてもうれしかったのですが、神父になる許可をいただいたときの喜びは、それとはちょっと違うものでした。「やったー」というよりもむしろ「まさか」、「長年の努力が報われた」というよりもむしろ「こんなわたしを司祭にしてくださるなんて」というような気持だったのです。それは確かに大きな喜びでしたが、体が跳ね上がるようなものではなく、魂を静かに揺さぶるような喜びでした。そのときわたしの口から出た言葉は、ただ「神様、ありがとうございます」ということだけでした。
 神父になる許可を得たと友人たちに伝えたとき、たくさんの方が「やったね、片柳さん」というように声をかけてくださいましたが、それはわたしが内心で感じていたこととはちょっと違った言葉でした。そのとき、わたしの気持ちを理解し、静かな喜びと激励で祝ってくれたのは、わたしと同じように思いがけず神父に召し出された体験を持つ先輩の神父様方でした。
 マリアがエリザベトのもとに駆け付けたとき、その心の中にあったのはきっとこのような喜びだったのでしょう。「主のはしために過ぎないわたしにさえ、神が目をとめてくださった」という言葉の中に、そのすべてが現れていると思います。マリアの喜びは、「やったー」と叫ぶような性質のものではなく、ただ「わたしの魂は主をあがめます」と神に感謝の祈りを捧げる以外にないものだったのです。
 マリアと同じように神の大いなる力によって子を宿し、洗礼者ヨハネの母となる使命を与えられたエリザベトには、マリアのそんな喜びがよくわかっていました。そこでエリザベトはマリアと共に感謝の祈りを捧げたのです。エリザベトこそ、マリアと共に世界で最初の賛美の祈りを捧げるのにふさわしい人物でした。
 わたしたちも「いつも喜んでいなさい」と言われていますが、その喜びは決して自分の力で何かを成し遂げたり、手に入れたりした喜びではありません。わたしたちがいつも心に持っているべき喜びは、「こんなとるに足りないわたしに、神様がこれほどよくしてくださった」という感謝の喜びなのです。そのような喜びを持って教会に集うとき、わたしたちの口からは、きっとマリア、エリザベトの口からあふれ出したのと同じように美しい賛美の祈りが生まれてくることでしょう。謙遜な心ですべてを神に感謝し、感謝の喜びを教会に持ち寄って神を賛美することができるよう、心から祈りましょう。
※写真の解説…六甲山の山道で見かけた白い山茶花