バイブル・エッセイ(325)小さく無力な命の中に


小さく無力な命の中に
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:8-14)
 天使が現れて救い主の到来を告げたとき、羊飼いたちはきっと大喜びしたでしょう。ですが、次に聞こえてきた言葉は羊飼いたちにとってまったく意外なものでした。救い主は、立派な王様や堂々たる預言者としてではなく、なんと飼い葉おけに寝かされた乳飲み子として来られるというのです。
 しかし、戸惑いながらベトレヘムに行き、告げられた通り貧しい馬小屋の飼い葉おけに寝かされた赤子を見たとき、羊飼いたちは確かに救いの到来を知りました。小さくてまったく無力な赤子の命の中に、全知全能の神の大いなる栄光が輝いているのを見たからです。どれほど小さくて無力な命の中にも、神の大いなる栄光が宿りうる。羊飼いたちが目撃したその出来事こそが、天使たちが告げた福音そのものでした。
 わたしたちの一人ひとりは、人生において、地上にやって来られたイエスを探し続ける羊飼いのようなものです。イエスは、立派なお金持ちや有力な政治家、有能な実務家のような姿でやって来るとは限らない。むしろ、この地上の価値観で測ればまったく取るに足りない、自分では何もできない人の姿でやってくるということを忘れないようにしたいと思います。
 例えば、こんなことがありました。神学生の頃のことです。その頃わたしは、神学生の奉仕活動として、毎週ホームレスのおじさんたちにお握りを配るグループに参加していました。いくつかの公園や地下道などを周り、お握りを配って歩くのですが、一人のおじいさんはいつ行っても酔っぱらっていて、わたしたちに「まずい握り飯だなぁ」とか「もう来るな」とかひどい言葉を投げかけました。みんなの嫌われ者です。
 ある日、わたしが昼間その公園を通りかかると、おじいさんがいつもの場所にさびしそうに座って、日向ぼっこをしていました。酔っぱらってはいないようでした。わたしは思い切って「いいお天気ですね」と話しかけました。ベンチに座って、しばらく天気のこと、景気のことなど色いろ話していたのですが、おじいさんはふとこう言いました。「俺も好きで酔っぱらってるわけではないんだ。だれも相手にしてくれないから、気をまぎらすためさ。」
 その言葉を聞いたとき、わたしははっとしました。このおじいさんは、泣いて親の助けを求める赤子のように、酔っぱらって叫ぶことでわたしたちに助けを求めていたのです。このおじいさんの中にも、確かに小さく無力な幼子イエスがおられる。このホームレスのおじいさんの中にも、神の命が宿っている。わたしは、そのときはっきりとそう感じました。それ以来、わたしはもうそのおじいさんに何を言われても腹が立たなくなり、むしろ何かしてあげずにはいられない気持ちになったのです。
 そのような目で見ると、わたしたちの身の回りには幼子イエスがあちこちにいると思います。例えば、いつも愚痴や昔話ばかりして、何をしてあげても感謝の言葉一つないおじいさん。そのおじいさんの中に、寂しさに耐えかねて、周りの人たちに助けを求めている幼子イエスがおられます。例えば、いつも人の批判ばかりしていて、友だちが誰もいない同僚。その同僚の中にも、自尊心を深く傷つけられ、人々の愛を求めている幼子イエスがおられます。相手の中に小さく無力な幼子イエスを見つけることさえできれば、どんな相手だったとしてもわたしたちは愛さずにいられなくなるはずです。
 エスは、立派な姿、好ましく魅力的な姿でやってくるとは限りません。目の前にいる小さくて無力な幼子イエスを見逃してしまうことがないように、いつも心の目を開いていましょう。
※写真の解説…カトリック六甲教会主聖堂に置かれた幼子イエス像。