バイブル・エッセイ(327)心に納めて思い巡らす


心に納めて思い巡らす
 そのとき羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)
 天使たちが現れ、この飼い葉桶に寝かされた貧しい赤ん坊こそが救い主だと告げた。羊飼いたちのそんな話を聞いたとき、人々は「不思議に思った」と聖書は記しています。ですがこれは、きっと控えめな表現でしょう。多くの人は、こんなみすぼらしい馬小屋の、飼い葉桶に寝かされた無力な赤ん坊が救い主だなんてありえないと思ったに違いありません。もしかするとマリアでさえ一瞬、「もしこの子が救い主なら、なぜこんな惨めな思いをしなければならないのか」と思ったかもしれません。ですが、自分は神のはしためにすぎず、神の大いなる計画は自分の理解をはるかに越えていると分かっていたマリアは、「ありえない」と簡単に結論を下すことなく、「すべて心に納め、思い巡らす」ことにしました。この不思議な出来事を通して、神が何を語っているのかを祈りの中で聞き取ろうとしたのです。
 このように、出来事をあるがままに受け止め、そこに込められた神の語りかけに耳を傾ける姿勢は、まさに「神の母」にふさわしいものでしょう。母には、そのような謙虚さが求められているのです。子育どもを育てるときに、子どもに起こるさまざまな出来事について、母親がいちいち自分で判断を下していたらどういうことになるでしょう。
 例えば、子どもが自分の思った通りに勉強してくれないというとき、「この子はだめだ」と判断して子どもを責め、自分の子育ての仕方が悪かったと嘆く、そのようなお母さんに育てられる子どもは大変です。自分自身を責めたり、自分を受け入れてくれない母に反抗したり、さまざまな葛藤を抱えながら成長することになるでしょう。神がその子に与えた特別な使命が、親の勝手な判断によって損なわれてしまう可能性さえあります。
 理想的なのは、子どもの身に起こったことに軽々しく判断を下さず、「この出来事を通して神は子どもに、そしてわたしに何を語りたいのだろう」と思って「すべてを心に納め、思い巡らす」母親でしょう。何が起こっても優しい笑顔で子どもをありのままに受け止め、子どもの苦しみによりそいながら一緒に答えを探していく母親。そんな母親のもとでなら、子どもは安心して、ただ神様に向って進んでいく真っ直ぐな心を育てていくことができるに違いありません。マリアが「神の母」に選ばれたのは、マリアにこのような信仰があったからに他ならないと思います。
 このような信仰は、母に限らず、すべてのキリスト信者に必要なことでしょう。家族や自分の身に起こる出来事について、軽々しく人間的な判断を下さず、「すべてを心に納めて思い巡らす」人だけが、出来事を通してわたしたちに語られる神の声に忠実に生きられる人です。周りの人に自分の判断を押し付けることなく、相手の思いに寄り添いながら、共に「神の国」に向って歩んでいくことができる人です。
 人間の思いによって神の御旨を歪めず、この世界に神の思いをまっすぐに実現していくためには、「すべてを心に納めて思い巡らす」この信仰がどうしても必要です。聖母マリアの模範にならってそんな人になっていくことができるよう、心から神様に願いましょう。
※写真…イエズス会神戸修道院の庭にて。