バイブル・エッセイ(332)心の隙間に入り込む「鬼」


心の隙間に入り込む「鬼」
 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 先日、ラジオのニュース番組を聞いていると、番組の最後にアナウンサーがこんなことを言いました。「もうすぐ節分、『鬼は心の隙間に入り込む』と言いますから、気をつけたいですね。」この言葉を聞いたとき、わたしはとても福音的だと感じました。
 わたしたちの心に、怒りや憎しみ、嫉妬といったような悪い思いが入り込むのはどんなときでしょう。例えば、子どもの何気ない一言が心にぐさりと突き刺さり、激しい怒りを生むことがあります。普段は何でもなく受けがしている不平不満やわがまま、その中に込められたかすかな悪意や敵意が、心の深い所にまで入ってしまうことがあるのです。それは、「家族のためにこんなにがんばっているのに、誰もわたしの努力をわかってくれない」と感じているようなときです。仕事がどうしてもうまくいかず、「何のために働いているのだろう」というような疑問がふと心によぎったときなどもそんなことが起こりがちです。つまり、わたしたちの心から喜びがなくなると、その隙間に悪意や敵意といった「鬼」たちが入り込み、大暴れするということです。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。愛はねたまない」とパウロが言うのは、つまりわたしたちの心が愛する喜びで満たされていれば、どんな悪意や敵意もわたしたちの心に入り込む余地がないということでしょう。人々の激しい悪意や敵意に囲まれたイエスが、その中を何事もなかったかのように通り過ぎてゆくのも、愛さえあればどんな悪意や敵意も乗り越えられるということを象徴しているように思います。
 ですから、もし誰かの何気ない一言がとても気になるときは、相手に反論するのではなく、まず自分自身の心に向かい合いたいと思います。その言葉が気になるのは、相手のせいであるよりも、むしろ自分自身が心に隙間を作ってしまったからである場合が多いからです。もし心に隙間を見つけたら、祈りの中で神の前にその隙間を差し出しましょう。「わたしは今、人生の意味に疑問を感じています。もう一度、あなたの愛を思い起こさせてください」と祈るだけでいいと思います。よく見回せばわたしたちの身の回りは神からの恵みに溢れていますから、神の愛を思い起こすのはそれほど難しいことではないはずです。
 祈りの中で心の中に神への感謝、愛の喜びが湧き上がってくれば、もう何も恐れることはありません。あふれるほど豊かな神の愛の前では、相手の放った言葉などまったく取るに足りないことだからです。わたしたちの心が豊かな愛で満たされていれば、「鬼」たちの入り込む余地などないのです。
 気になることを言われたからと言って反論し、怒りに身を委ねれば、まさに「鬼」たちの思うつぼ。悪意や敵意は広がった隙間からさらに仲間を呼び込んで、わたしたちの心を蹂躙していくに違いありません。相手が言った何気ない一言に腹が立ったら、まず自分自身の心に隙間ができていないか確認しましょう。そして、もし隙間を見つけたら、神の愛によってその隙間をふさいでいただきましょう。それが、「鬼」たちに対抗する一番の方法だと思います。
※写真の解説…大阪城公園冬至梅。