やぎぃの日記(160)答えられない質問


答えられない質問
 ボランティア活動などで教会の外に出ると、キリスト教徒でない方々からまったく思いがけない質問を浴びせられることがある。
「たくさんある宗教の中から、なぜどれか一つを選ばないといけないんですか?一つを選ばなければ、幸せになれないんですか?」
「救いに至る道が一つなら、なぜ世界中にこんなにたくさん宗教があるんですか?迷ってしまいます。」
キリスト教徒は他の宗教のことをどのくらい知っているんですか?よく知らないのなら、なぜ間違っていると言えるんですか?」
 とても素朴だが、問題の本質を鋭く突いたこのような質問を浴びせられるたびに、わたしは戸惑っていた。教会の中ならば「唯一絶対の神」という大前提に基づいた質問しか出てこないが、これらの質問はその大前提を完全に無視している。このような質問をされただけで腹が立つキリスト教徒もいるかもしれない。だが、質問してる人に悪意はほとんど感じられない。八百万の神が生きる多神教の国、日本では、むしろこのような感じ方の方が自然なのだろう。キリスト教の世界にどっぷりつかっているうちに、わたしの方が日本人の自然な宗教性からあまりにも遠ざかってしまっていたのだ。
 このような質問に対して、わたしが使っている「唯一絶対の神」を前提とした言葉による回答はほとんど意味をなさない。言葉が通じないのだ。これは、一神教パラダイム多神教パラダイムの衝突と言ってもいいくらい深刻な事態と言えるだろう。多神教でいいんじゃないの?」、「いや一神教でなければだめなんです!」、「どうして?」、「どうしても!」というような永遠にかみ合わない議論が始まりかねない事態だ。
 このような質問に直面して、最初の頃はただ戸惑うばかりだった。だが、何が起こっているのかを理解できたときから、どう答えたらいいかがだんだんわかってきた。自分の持っている言葉が通じない相手に対しては、人類に共通の言葉、たとえば謙遜などによって答える以外にないのだ。思いがけない質問を浴びせられたときに、真摯に考え込み、「それは、わたしには分かりません。ですが、わたしは〇〇をとても大切に思い、信じているのです」と答えるなら、その謙遜な姿の中に相手は何らかの答えを見つけるかもしれない。柔和、誠実、潔さなど他にも答えはいろいろありうる。これらの問いに一般的な答えはなく、相手の問いと真摯に向かい合う中で自ずから生まれてくるものだとも言えるだろう。
 間違ってもしてはいけないのは、そのような質問を浴びせた相手に腹を立て、うまく答えられない自分にいらだちながら、「あなたはそんなことも分からないのですか。神はこうおっしゃっています」などと答えてしまうことだ。そんなことをすれば、相手は「ははあ、この人は答えられないのだな。その上に、自分の権威を守ろうとやっきになっている」と正確にわたしたちの正体を見抜いてしまうだろう。
 日本のような多神教の風土で一神教の神を布教するのは、本当に難しい。どんな事態に直面してもうろたえないために、心の底からの謙遜さを養いたいと思う。
カトリック教会の諸宗教に対する考え方については、次の文章が参考になります。第二バチカン公会議公文書の一節です。
「普遍なる教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も退けない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは、教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なってはいるが、すべての人を照らす『真理』のある光線を示すことがまれではない。」(「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」2番)
※写真の解説…京都、北野天満宮の梅。