バイブル・エッセイ(336)愛の実を結ぶために


愛の実を結ぶために
 エスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
 大きく成長するばかりで実をつけないイチジクの木を、主人は斧で切り倒そうとします。主人は神、園丁はイエス、いちじくの木はわたしたちだとすれば、これはちょっと恐ろしい話です。信仰の実をつけないなら、神はわたしたちを切り倒すだろう。だから、何としても実をつけなさいということでしょうか。
 そうではないでしょう。ここでイエスが言いたいのは、わたしたちが何のために植えられたのかということだと思います。わたしたちがこの地上に生まれてきたのは、ただ自分が大きく成長するためではなく、神のために愛の実を結ぶためなのです。人間の愛に飢えておられる神の空腹を満たす愛の実をつけるために、わたしたちは生まれてきたのです。
 愛の実とは、具体的になんでしょう。それは、喜びや感謝の祈り、隣人への奉仕など、信仰から自然に生まれてくる果実のことだと思います。降り注ぐ神の愛を全身で受け止めるとき、わたしたちの顔には自然と笑顔が浮かびます。そして、これほどの愛を与えてくれる神に感謝の祈りを捧げずにいられなくなるでしょう。わたしたちの心に満ちた神の愛は、表情や言葉、行いを通して周りの人にもあふれ出すはずです。そのような愛の実で地上を満たし、神との深い愛の交わりの中に生きるようにと、神は人間を創られたのです。
 神の恵みをまるで当然のことのように受け取って、ひたすら自分を大きく成長させることだけを考えている人を見つけるとき、神は深く悲しまれるでしょう。神は、そんなことのために夜も昼も働いて恵みを注いでいるわけではないからです。がっかりした神は、一度、その木を切り倒す以外にないと思われるかもしれません。
 そこで登場するのが園丁であるイエスです。自分のことしか考えられないその人の心を鍬で砕き、信仰を励ます肥やしを入れることで、イエスはその人の心が喜びや感謝、奉仕の実を結ぶのを助けるのです。その鍬は、例えば別離であるかもしれません。友達がそこにいるのを当然のことと思い、自分のことだけ考えて傲慢に振る舞う人の心に、イエスは突然の別離の鍬をいれます。その人が去ってしまったとき、わたしたちはその人が自分にとってどれだけ大切だったかに気づき、その人に、またその人を与えてくれた神に感謝する心を取り戻すのです。ある人には、大きな失敗や屈辱が与えられるかもしれません。ありえないような大失敗をして人々からののしられ、プライドを打ち砕かれるとき、わたしたちはこれまでどれだけ自分が感謝を忘れていたかに気づかされるのです。
 こうして、自分のことだけを考えて成長し続ける生き方を打ち砕かれ、周りの人たちに向かって開かれた心には、感謝や喜び、奉仕の実が育ち始めます。たわわに実った愛の果実は、人間の愛を待ち望む神の飢えを満たし、わたしたちの愛を待ち望むの周りの人たちの飢えも満たしてゆくでしょう。この地上を、愛の果実がいつでもたわわに実る楽園へと変えていきたいと思います。
※写真…六甲山の麓で見かけた草の実。