バイブル・エッセイ(338)いま踏み出す、新しい一歩


いま踏み出す、新しい一歩
 エスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8:1-11)
 「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う」(イザヤ43)と力強く宣言される神は、いつまでも人間の過去の罪を責め続ける方ではなく、今このときに大きな愛の中でゆるしを告げ、わたしたちを確かな未来へと導いてくださる方です。イエスが姦通の罪を犯した女の罪を責めることなく、大きな愛の中でゆるして「もう罪を犯してはならない」と優しく語りかけたこの場面も、そのことをはっきりと証していると思います。何よりも大切なのは、神の大いなる愛に信頼し、いまこのときに新しい第一歩を踏みだすことなのです。
 過去のことをくよくよと振り返るとき、わたしたちはつい「なぜあんなことをしてしまったんだろう」と自分を責めたり、「あれだけやって駄目だったんだから、もう何をやっても駄目だろう」とあきらめたりしがちです。そして、新しいことを何もできなくなってしまうのです。将来のことを考えるときにも、わたしたちは「もし失敗したらどうしよう」と心配したり、「自分にはとてもできないだろう」初めからあきらめたりすることがあります。そして、新しいことは何もできなくなってしまうのです。
 過去のことを振り返ったり、将来のことを思い巡らしたりする前に、何よりもいま、このときに降り注ぐ神の愛を全身で受け止めることが大切だと思います。大いなる愛の中で、自分に与えられた使命が何かを見つけ出すときにだけ、わたしたちは新しい一歩を、力強く踏み出すことができるのです。過去のことは、神がすべてゆるしてくださいます。なぜいつまでも自分を責め続ける必要があるのでしょう。未来のことは、神がすべて一番よく整えてくださいます。なぜ心配する必要があるのでしょう。わたしたちはただ、いま、この瞬間に神の愛を感じ、与えられた使命を果たすために新しい一歩を踏みだせばよいのです。
 先週選ばれたわたしたちの新しい教皇は、これまで誰も使ったことがない新しい名前、フランシスコを教皇名として選ばれました。この選択から、これまでのしがらみに一切縛られることなく、神の愛の中でまったく新しい一歩を踏みだそうという教皇の決意をわたしは感じます。
 教皇名の由来となったアッシジのフランシスコは、地上に平和をもたらすための道具として生きた人であり、兄弟姉妹である貧しい人々に仕えた人であり、地上のあらゆる被造物を愛し、美しままに守ろうとした人でした。フランシスコ教皇は、この聖人の模範にならい、争いではなく平和をもたらす教会、貧しい人たちのための教会、すべての被造物を大切にする教会を目指して新しい一歩を踏みだそうとしています。
 過去にだめだったからきっと今回もだめだろうとか、失敗したらどうしようかなどと心配する必要はありません。必要なのは、わたしたちにこのすばらしい教皇を与えて下さった神の愛を信頼し、この教皇のあとについて新しい一歩を踏みだすことです。新しい教皇と共にわたしたちがこれから始める旅の、すべての歩みを神が導き、守って下さるようにと心から祈ります。
※写真…3本仲よく顔を出した土筆。京都、北野天満宮境内にて。