【フランシスコ教皇の言葉】


フランシスコ教皇の言葉
■職員たちとのミサでの説教から■
 3月22日、サン・ピエトロ広場の清掃員や宿舎の従業員と共に捧げたミサでの説教の一節です。(『オッセルバトーレ・ロマーノ』の記事より)
「心が石のようになるとき、私たちは石を手に取り、兄弟姉妹、とりわけ最も弱い人々の姿をとったイエス・キリストに投げつけるものです。愛に向かって、心を開かなければなりません。」
■「枝の主日」のミサ説教から■
 3月24日にサン・ピエトロ広場で行われた「枝の主日」のミサでの説教の抜粋です。イエスエルサレム入場から十字架上での死までを記念する日であると同時に、世界青年の日でもあるこの日の説教の中で、フランシスコ教皇は「喜び」、「十字架」、「若者」をキーワードにして語られました。(ラジオ・バチカンより)
1.「喜び」
「イエスは、とりわけ素朴な心の人々、謙遜な人々、貧しい人々、世間から相手にされない忘れられた人々の心に大きな希望を呼び起こしました。イエスは人間の苦しみを理解し、神の慈しみの顔を示し、体と心を癒すためにかがみこんだのです。今、イエスは聖なる街に入ろうとしています。これこそイエスです。これこそ、私たち全員に気を配り、私たちの病気や罪を見つめる心です。イエスの愛は偉大です。イエスはこの愛をもって、私たち全員を見守りながらエルサレムに入ります。」
「イエスを迎えるとき、初めに湧き上がる言葉は『喜び』です。悲しみの人であってはなりません。キリストを信じる者が悲しんでいるということは、決してありえないからです。失望に道をゆずってはなりません。わたしたちの喜びは、たくさんのものを持つことではなく、イエスという1人の人と出会ったことから生まれるものです。困難なときでさえ、人生の旅が乗り越えられそうもないほどの問題や障害に直面するときでさえ、イエスは共にいて下さり、私たちは決して一人ぼっちではないと知っていることから生まれる喜びなのです。」
「困難なとき、私たちの敵、悪魔がやって来ます。悪魔はしばしば、天使に化けて自分の言葉を狡猾に語ります。悪魔に耳を傾けてはなりません。私たちはイエスに従うのです。私たちはイエスに寄り添い、イエスに従います。ですが、何よりもまず、イエスが私たちに寄り添い、私たちを肩に乗せて運んでくださるのです。これこそ私たちの喜びであり、この世界に伝えなければならない希望です。信仰の喜びを、すべての人に伝えましょう。希望を奪われてはなりません。」
2.「十字架」
「なぜ十字架を背負うのでしょう?イエスは、私たちの罪を含めて世界中の悪、汚れ、罪をご自身で背負われました。そして、御自身の血で、神の慈しみと愛で洗ってくださいます。周りを見回してみましょう。人類は、悪のためにどれほどたくさんの傷を負っていることでしょう。戦争、暴力、弱者を直撃する経済紛争、天国へは運ぶことができない金銭への貪欲。私の祖母は、よく言っていたものです。死者が着る服に、ポケットはないと。」
「十字架上のイエスは、悪の全ての重みを感じておられます。そして、神の愛の力によってそれらを克服し、復活によってそれらを打ち破るのです。これこそ、玉座である十字架からキリストが与えて下さる恵みです。愛によって抱きとめられたキリストの十字架は、悲しみではなく、喜びをもたらすのです。それは、救われた喜び、イエスが死の日に行ったことのわずかな部分を行う喜びです。」
3.「若者」
「若者の皆さん、皆さんは信仰を祝う中で大切な役目を持っています。皆さんは信仰の喜びをもたらし、いつまでも、70歳や80歳になったとしても、若い心で信仰を生きなければならないことを教えてくれます。若い心。キリスト共にいるなら、心は決して老いることがありません。」
「若い人々は世界にこう語るべきです。『イエスに従うことはすばらしい。イエスと共にいることはすばらしい。イエスのメッセージはすばらしい。自分の殻から、この世の限界から抜け出して、イエスを人々に伝えることはすばらしい。』」
教皇様のツイート■
 「枝の主日」のミサの直後に配信された2つのツイートです。
「7月のリオ・デ・ジャネイロを楽しみにしています。あのブラジルの偉大な都市で、皆さんと会えますように。」
「暴力や不正義、罪を前にして、私たちができることなど何もないと邪悪な者がささやきかけるとき、決して信じてはなりません。」