バイブル・エッセイ(343)生命を与える食事


生命を与える食事
 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。...漁を終えた弟子たちが陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。(ヨハネ21:1-14)
 エルサレムの部屋で2度、復活したイエスと出会い、福音宣教の使命を与えられた弟子たちでしたが、今日読まれた箇所ではどういうわけか生まれ故郷のガリラヤに舞い戻っています。弟子たちは、イエスの復活を確信した後も、すぐに使徒言行録に書かれているような力強い宣教活動に入ったわけではなかったのです。
 なぜ弟子たちはガリラヤに戻ってしまったのでしょう。それはおそらく、福音宣教という大きな使命を与えられたものの、どこから何を始めていいのか分からなかったからだと思います。考えているあいだも自分たちが食べてゆくだけの食料は手に入れなければなりませんから、弟子たちはとりあえず生まれ故郷のガリラヤに帰ることにします。そこで彼らは、昔通りに漁を始めたのです。久しぶりの漁に出たとき、彼らはぺこぺこにお腹を空かせていただけでなく、心の中には将来への大きな不安を抱えていたことでしょう。
 そんな彼らのもとに、200ぺキス(約90m)ほど離れた岸辺から声が聞こえてきます。ガリラヤ湖の静かな水面を渡って、「何か食べるものはあるか」という声が響いてきたのです。弟子たちはその声の通りに漁をし、たくさんの魚を手に入れたとき、3度イエスが現れたことに気づきます。そして、大急ぎで岸に戻ってくるのです。岸に着いたとき、もっと驚くべきことが弟子たちを待ち受けていました。なんと、エスがすでにどこかからパンと魚を手に入れ、食事の準備を整えてくれていたのです。
 この食事こそが弟子たちにとっての大きな転換点になったのではないかとわたしは思います。先日、『バベットの晩餐会』(デンマーク、1987年)という映画を見ながら改めて思ったことですが、真心をこめて準備した食事は、ときに誰かの人生をすっかり変えてしまうほど大きな力を持つことがあります。真心をこめて準備された食事は、単に体の空腹を満たすだけではなく、食べた人の心の飢えを満たす力さえも持っているのです。映画では、食事が持つそのような力が、映像を通してはっきりと描き出されていました。
 弟子たちもおそらく、イエスから手渡されたパンと魚を噛みしめながら、体の空腹と心の飢えの両方を満たされていったに違いありません。久しぶりの食事のおいしさと、そこに込められたイエスの愛情に感動し、涙を流しながら食べた弟子だっていたでしょう。この食事は、弟子たちに新しい生命、復活の生命を与える食事だったのです。この食事によって体と心に力を与えられた弟子たちは、ただちにエルサレムに戻って福音宣教を開始したのだろうと思います。
 この食事が、ミサの原点の一つであることは間違いありません。復活を信じても動き出せない弟子たちのためにガリラヤ湖畔で食事を準備して下さったのと同じように、イエスはいま、このミサの中でわたしたちのために真心をこめた食事を準備して下さいます。この糧を受け、体と心を神の愛で満たされて、力強く福音宣教に旅立って生きましょう。 
※写真…満開を迎えた六甲山の山桜。