バイブル・エッセイ(347)いなくなって分かること


いなくなって分かること
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:23-26)
 自分が去った後、聖霊がやってきて「すべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とイエスは言います。いなくなって初めて、その人の言葉や行いの本当の意味が分かる。そういうことが、確かにあるようです。
 たとえば葬儀のとき。これまで大きな壁として自分の前に立ちはだかってきた父親が、まったく無力な遺体となって自分の前に横たわっているのに直面して、父親に対する見方がまったく変わったという人がいます。無言のまま横たわった父親の顔に刻み込まれた皺や、しみだらけの手を改めてじっと眺めたとき、「この人も弱い人間だったんだ。それでも、彼なりにがんばって家族を守りながらここまで生きて来たんだ」と気づいたというのです。そのとき、これまでの「親のくせに」などと思って反抗してきたことが申し訳なくなり、思わず涙がこぼれたと言います。このようにして、わたしたちを人間関係のさまざまなしがらみから解き放ち、相手の真実の姿を見せてくれる。それが、聖霊の働きの一つなのでしょう。
 弟子たちも、イエスが天に挙げられることで、初めてイエスの愛の真実の意味を知らされたのだと思います。たとえば、弟子たちのあいだには、イエスが十字架に付けられる直前まで「弟子の中で誰が一番偉いのか」という争いがあったようです。これは、言ってみれば兄弟げんかのようなものでしょう。兄弟が親からの愛を争うように、弟子たちは誰がイエスから一番愛されているかを競い合っていたのです。中には「イエスはわたしよりあの弟子を可愛がっている」と不満を持っていた者さえいたかもしれません。ところが、イエスが昇天し、誰が一番イエスに愛されているかということを争えなくなったとき弟子たちは気づきました。エスは、一人ひとりの弟子を、自分のすべてを与え尽くすほどの愛で愛していたのです。あの弟子には20%、この弟子には50%というように分け与えるのではなく、すべての弟子に自分の愛を100%差し出した人。それがイエスだったのです。
 いなくなってからであっても、真実の姿がわかったならそれは大きな恵みでしょう。ですが、一番いいのは、その人がまだいるうちに相手の真実の姿に気づくことだと思います。いなくなる前に気づけば、相手に向かって直接、感謝の言葉を伝えることも、相手の愛に愛をもってこたえることもできるからです。聖霊がわたしたちの心の目を開き、相手の真実の姿に気づかせてくださるように祈りたいと思います。
※写真…京都、鞍馬にて。