【フランシスコ教皇の言葉】


フランシスコ教皇の言葉
■説教やメッセージから■
5月23日(木)朝のミサでの説教
「塩は、料理の味をよくするのに使われるときにだけ意味を持ちます。瓶の中に蓄えられた塩は、湿気でその味を失い、役に立たないものとして捨てられます。私たちに与えられた塩も、与えられるためのものなのです。味をつけるために、配り尽くされるためのものなのです。」
5月24日(金)朝のミサでの説教
「苦しむとは、困難によって引き倒されないように、困難を受けとめ、力強く担うということです。困難を力強く担うことこそ、キリスト教徒の徳なのです。」
5月25日(土)朝のミサでの説教
「ミサの後で婦人から祝福を求められたある司祭が、祝福の神学的意味を説明してその求めを断りました。婦人は『分かりました』と答えましたが、その司祭が行ってしまうと、別の司祭に祝福を頼みました。彼女は、主に触れてほしかったのです。そのような信仰を大切に育てなければなりません。」
5月27日(月)朝のミサでの説教
「『主の後に従うことはとてもすばらしい。でも、あるところまでだ。』これが、経済的な豊かさが私たちに言わせることです。私たちは誰でも、豊かさが何であるか知っています。しかし、それは私たちから、イエスに近づくための勇気を奪うのです。」
「ある男性が、10年だけ神父になりたいと言っているのを聞きました。それが、暫定性への執着です。私たちは、時間の支配者になりたいのです。生涯を宣教師として生きるために国を離れた、たくさんの人々のことを思い出します。それは、決定的な選択でした。」
5月28日(火)朝のミサでの説教
マザー・テレサのことを考えて見なさい。この世の霊は、彼女について何と言うでしょう。マザー・テレサはすばらしい人だった。たくさんよいことをしたとだけ言うのです。この世の霊は、彼女が毎日、たくさんの時間を聖体礼拝に費やしたことについては決して何も言いません。この世の霊は、キリスト教徒の活動を、慈善活動に還元してしまうのです。」
5月29日(水)朝のミサでの説教
「霊的苦しみを抱えていたときに、告解室で『神の人』としか思えない80代のシスターに出会いました。私は『償いとして、私のために祈って下さい。そうすれば、恵みが与えられるでしょう』と言いました。するとシスターは、祈っているかのように一瞬沈黙した後こう言いました。『もちろん、主は恵みを与えて下さいます。ですが、主には主のやり方があります。』」
5月29日(水)一般謁見でのメッセージ
「神は私たちを、自分自身に閉じこもる個人主義から抜け出すようにと促します。そして、主の家族の一員になるようにと呼び出すのです。この呼び出しは、創造そのものの中に起源を持ちます。神は、私たちが主と深い友情の絆を結んで生きることができるようにと、私たちを創造されたのです。罪がこの絆を破壊したときも、神は私たちを見捨てることがありませんでした。」
「今日でも、『キリストは受け入れる。でも、教会はいらない』という人たちがいます。同じように『神は信じるが、神父は信じない』という人もいます。ですが、キリストを私たちのもとに運ぶのは教会であり、私たちを神のもとに運ぶのは教会なのです。教会とは、神の子どもたちの大いなる家族です。」
教皇様のツイート■
5月23日(木)
「私は、福音が語る和解と愛のメッセージを、自分が生きている場所、働いている場所で実践しているだろうか?」
5月24日(金)
「扶助者聖母の祝日に当たって、シェシャンの聖母の守りに信頼する中国のカトリック教徒と心を合わせ、彼らのために祈ります。」
「奇跡は起こりますが、そのために祈りが必要です。単なる形だけの祈りではなく、勇敢で、困難に立ち向かう、粘り強い祈りが必要なのです。」
[[5月25日(土)]]
「私たちは誰でも、心の中にいくらかの不信仰を持っています。主に向かって、『私は信じます。不信仰から救ってください』と言いましょう。」
5月26日(日)
「利己心に屈服し、神に向かって『いいえ』と言うたびごとに、私たちは神が私たちのために準備して下さった愛の計画を台無しにしてしまうのです。」
5月28日(火)
「親愛なる若者の皆さん、教会は皆さんが偉大なることを行い、寛大に奉仕してくださることを望んでいます。高い目標を持つことを、決して恐れないで下さい。」
5月29日(水)
「教会は十字架上での至高の愛の行いから、開かれたイエスの傷口から生まれました。教会は、私たちが愛し、また愛される場であり、一つの家族なのです。」