バイブル・エッセイ(355)先触れの使命


先触れの使命
 主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」(ルカ10:1-12)
 イエスは、ご自分がこれから行くつもりのすべての町や村に弟子たちを遣わしました。弟子たちの使命は、間もなく救い主がやって来ることを告げるための先触れの使命だったと言っていいでしょう。彼らに与えられた使命は、人々を救うことではなく、イエスによる救いのときが近づいたと人々に告げることだったのです。
 救い主の到来を告げるために、一番ふさわしい方法は何でしょうか。それは、イエスに信頼すれば何の心配もない。何も持っていなくても、すべてを失ったとしても、イエスが必ず救ってくださると、身を以て証することでしょう。「イエスは信頼できる方だ」、身を以てそれを証するのが先触れの使命なのです。その使命を十分に果たすことができるよう、イエスは弟子たちを何も持たずに旅立たせました。
 例えばこういうことです。この春福島に旅立っていったある修道会のシスターたちは、いま小さな家を借りて貧しい生活をしながら、近隣の人々のあいだを周り歩いています。これは、イエスの先触れとして本当にすばらしい働きだと思います。いま、福島の人々にとって一番不安なのは将来のことです。放射能によって財産は価値を失い、子どもたちも村から出てしまった。いったいこれからどうなるだろうという不安の中にある人々が、何も持たず、家族もいないシスターたちが、喜びに満ちて幸せそうに歩き回っている姿を見たらどうでしょう。きっと、「あの人たちは何も持ってないのに幸せそうだ。あの人たちが信じているイエスという人に、きっと秘密があるに違いない」、そう思うに違いありません。これこそ、まさに先触れの果たすべき使命だと思います。
 はっきりさせなければならないのは、先触れであるわたしたちの使命は、人々の心に私たちへの信頼を植え付けることではないということです。お金や食べ物、服、履物に限らず、学歴や資格、知識、技術などをたくさんのものを持って出かけ、それらを使って立派に振る舞うことで「あの人は信頼できる人だ」と思われる、それは先触れの使命ではありません。それでは、自分自身を宣教しているようなものです。むしろ、「あの人はお金もなく、住むところもなく、食べるものさえない。それなのに、いつも喜びに満ちている。あんな人でも救ってくださるイエスという方は、きっと信頼できる方に違いない。」そう思われることこそ、わたしたちの使命なのです。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラ6:14)とパウロが言うのもその意味だと思います。わたしたちが誇るべきなのは、十字架につけられたイエスの無力さと惨めさだけなのです。無力で惨めなわたしたちが、イエスによって救われたということだけを、わたしたちは誇るべきなのです。
 先触れであるわたしたちの使命は、ただ無力さと惨めさの中で、これからやって来られる救い主、イエス・キリストの力を証することだけです。その使命を十分に果たすことができるように、今日の御言葉を深く心に刻みたいと思います。
※写真…日光、戦場ヶ原にて。