バイブル・エッセイ(356)同じ人間、同じ神の子


同じ人間、同じ神の子
「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(ルカ10:30-36)
 当時の社会で差別を受けていたサマリア人は傷ついた人を助け、当時の社会で尊敬されていた祭司やレビ人は、傷ついた人を無視して通りすぎました。「半殺し」にされた人を無視して通りすぎるということは、「見殺し」にするに等しい行為です。なぜ、祭司やレビ人は傷ついた人を見殺しにすることができたのでしょう。
 先日、こんな話を聞きました。第二次世界大戦中のヨーロッパでのことです。ある冬の日の朝、まだ敵は遠くにいると思った兵隊が基地の近くを散歩していました。すると、基地からそれほど遠くないところに、何と敵兵が立っているではありませんか。その敵兵は見張り役のようでしたが、まだこちらには気づきません。兵隊は、チャンスと思って銃を構え、敵兵に狙いを定めました。ところが、撃とうとした瞬間、思いがけないことが起こりました。敵兵がジャンプしはじめたのです。なぜだかわかりますか?
 そう、厳しい冬の寒さの中にずっと立っていた敵兵は、寒くて仕方がなくなって体を温めようとしたのです。そのことに気づいた瞬間から、兵隊はもう引き金を引くことができなくなりました。相手も寒さを感じる、自分と同じ人間だと気づいたからです。
 自分と同じ人間と思えば、誰かを殺すことができるでしょうか。その人にもお父さん、お母さんがいるし、帰りを待っている恋人や妻、子どもたちだっているかもしれないのです。人生に悩んだり、将来にささやかな夢を持ったり、自分と同じように生きている人間を、殺すことができるでしょうか。敵兵だと思うからこそ殺せるので、同じ人間だと思えば誰も人を殺すことなどできません。
 それが、サマリア人がけが人を助けた理由でもあると思います。サマリア人というのは、当時社会の中で差別されていましたから、余計、他人の痛みに敏感だったのかも知れません。祭司たちは、「あの人は自分とは違う」と決めつけて立ち去り、サマリア人は「同じ人間だ」と気づいて奉仕したのです。「自分と同じ人間だ」と気づいたからこそ、「自分と同じように愛する」ことができたと言っていいでしょう。
 わたしたちは、同時に神さまのことも考えたいと思います。目の前に倒れている人、苦しんでいる人は、わたしたちと同じ大切な神さまの子どもなのです。子どもが苦しんでいるのを見て平気な親など誰もいません。人間の親がそうだとすれば、神さまはご自分の子どもが倒れ、苦しんでいるのをみて、どれほど苦しんでいることでしょう。そんなとき、わたしたちはどうしたらいいでしょう。
 もしわたしたちが神さまを愛しているのなら、迷うことはなにもないと思います。神さまの悲しみを取り除くために何かをすることです。倒れている人のそばに近づき、苦しんでいる人に寄り添い、その人にありったけの愛を注ぐことです。そうすれば、神さまはきっと喜んで下さるでしょう。それが、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」神さまを愛するということなのです。
 どんな人でも差別したり、見下したりすることなく、「同じ人間、同じ神の子ども」と思って愛することができる人、それが「隣人」です。イエス様の教えの通り、すべての人の隣人になることができるよう心から祈りましょう。

※写真…スーダンケニア国境の難民キャンプにて。2006年撮影。