バイブル・エッセイ(357)目の前にいるイエス様


目の前にいるイエス
 エスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」とイエスはマルタに語りかけました。マルタの棘のある言葉や暗くてゆとりのない表情から、マルタの心がたくさんの不安や心配、恐れなどによってかき乱されていることに気づいたのでしょう。
 マルタの心をかき乱していたのは、一体どんなことだったのでしょう。マルタは何に思い悩んでいたのでしょう。当時の男尊女卑の社会にあってマルタは独身だったようですから、もしかするとそのことへの不安があったかもしれません。弟のラザロの健康や妹のマリアの将来など家族のことで心配があったかもしれません。そのような将来への不安だけでなく、自分たちがこのような状態に陥ってしまったことへの後悔に心を乱されていた可能性もあるでしょう。いずれにしても、マルタは将来への心配や過去への後悔など多くのことによって心をかき乱され、いま目の前にいるイエスに向かってまっすぐに心を開くことができなかったのです。
 わたしたちも、このような状態に陥ってしまうことがあります。たとえば何か将来のことについて心配しているとき、わたしたちが考えるのは「わたしはこれから一体どうなるのだろう」ということです。過去のことを後悔しているとき、わたしたちが思うのは「わたしはなぜあんなことをしてしまったのだろう」ということです。つまり、将来のことや過去のことで思い悩んでいるとき、わたしたちの心の中には「わたし」ということしかありません。どんなときでもわたしたちと一緒にいてくださるイエスのことは、すっかり忘れてしまっているのです。エスのことを忘れて「わたし」のことばかり考えているときには、「どうしてわたしだけが」というような考えも起こりがちです。わたしたちを愛してくださるイエスのことを忘れ、自分より幸せそうに見える誰かのことを妬んでしまうのです。
 そんなマルタやわたしたちに、イエスは「必要なことはただ一つだけである」とおっしゃいます。わたしたちにとって本当に必要なこと、それは将来や過去のことで思い悩むのを止め、いま目の前におられるイエスに気づくこと。イエスの愛に気づいて、イエスの愛によって心を満たされることに他なりません。イエスの愛によって心を満たされ、イエスがいつでも必ずわたしたちと一緒にいてくださると確信できた人は、イエスと共に歩んでいく自分の将来のことを正しく考え、イエスを裏切ってしまった自分の過去のことを正しく後悔することができるでしょう。イエスと固く結ばれ、イエスの愛に満たされた人は、自分と他の人を比較して羨んだりすることもないでしょう。
 「マルタ、マルタ」と呼びかけるイエスの声には、「なぜ、あなたは目の前にいるわたしの愛に気づいてくれないのだ」という思いが込められているように感じます。イエスは、マルタを愛したくて愛したくてしかたがなかったのです。わたしたちが多くのことに思い悩み、心を乱しているときに、イエスは同じようにわたしたちに呼びかけておられます。わたしたち一人ひとりの名を、繰り返し繰り返し呼んでおられるのです。心を静かにしてその呼びかけに耳を傾けること、イエスの愛に心を開き、イエスの愛に心を満たされることからすべてを始めたいと思います。
※写真…カトリック六甲教会小聖堂の十字架と夏雲。