バイブル・エッセイ(360)戸口は開かれている


 エスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。(ルカ13:22-27)
 「救われる者は多いのでしょうか」という問いに対して、イエスは少ないとも多いとも言わず、いきなり「狭い戸口から入るように努めなさい」と答えました。イエスは何を言い始めたのでしょう。
 イエスが言いたかったのは、「救われる人」は多いとか少ないとか、そういう問題ではない。救いへの戸口は、狭いけれどもすべての人に開かれている。すべての人が救われうる、ということでしょう。神は、救いに入ろうとする人の数を制限したり、きちんと戸口を通ってくる人を拒んだりはしないのです。後半で「不義を行う者ども、立ち去れ」という言葉がありますから、狭い戸口から入るとは、その逆に神の言葉を聞いて神の御旨を行うことだと考えていいでしょう。心配するな、神の御旨を行いさえすれば、誰もが救いに入れる。それが、まずイエスの言いたかったことでしょう。
 しかし、イエスは続けて「入ろうとしても入れない者が多いのだ」と言います。つまり、救いに入りたいと強く望んでいるし、神の御旨を行いさえすれば救われることは分かっているけれど、神の御旨を行えない人が多いということでしょう。これは、確かにそうだと思います。例えば、この相手を赦すことが神の御旨だとは分かっているが、どうしてもこの人だけはゆるせない。財産や評判、子どもや親などへの執着を手放すのが神の御旨だとは分かっているけれど、これだけは手放したくない。悪口を言うべきでないのは分かっているけれど、これだけは言わずにいられない。貧しい人々を無視した浪費は神の御旨に反すると分かっているけれど、これだけはどうしても買いたい。そんなことは、日常生活のなかに数限りないほどあるでしょう。つまりわたしたちは、救いに入りたいし、入るための戸口は知っているけれど、そこから入れないということが多いのです。
 フランシスコ教皇は、このようなわたしたちの心の状態を見透かして次のように言いました。
「なぜわたしたちは救いに心を閉ざすのでしょう。それは、救いを恐れているからです。もしわたしたちを救うために主がやって来られれば、わたしたちは全てを差し出さなければならないと分かっているからです。」
 もし救いが実現すれば、そのときに起こるのはなんでしょう。それは、どうしてもゆるしたくない人と和解するということであり、手放したくない財産や評判、家族などへの執着が断ち切られるということであり、悪口を言えなくなることであり、浪費ができなくなるということです。救われたいけれども、それだけはいやだという人は多いでしょう。救われたいと願いながら、同時に救いを恐れる、そんなわたしたちの矛盾をフランシスコ教皇は鋭く指摘しています。わたしたちは、救われないのではなく、実は救われたくないのです。聖霊、来てください」と祈りながら、実際に聖霊がやって来ると、「ありがとう。でも、ここから先は入らないでください」と言って追い返してしまう。そんなことが多いように思います。
 神は、子どもであるわたしたちを救うためにたくさんの試練をお与えになります。ゲームばかりしている子どもから親がゲームを取り上げるように、神がわたしたちから大切な何かを取り上げることもあるでしょう。問題は、神を信頼して、神への愛ゆえにそれを受け入れられるかどうかです。ゆるしたくない相手をゆるし、手放したくないものを手放し、悪口をやめ、浪費を止められるかです。もし拒むなら、わたしたちは自ら救いを拒んでいるのです。
 救いへの戸口は、狭いけれどもすべての人に開かれている。これは本当に大きな希望です。救いへの戸口はいつでもわたしたちの目の前に開かれており、わたしたちは入りたいと思えばいつでもそこから入れるのです。神を信頼し、神への愛ゆえにすべてを手放せる信仰。神の御旨を信じて、狭い戸口から入っていくことができる信仰の恵みを神に願いましょう。