バイブル・エッセイ(365)愛がないなら


愛がないなら
 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセ預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセ預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカ16:19-31)
 東京のある大きな修道院に、不思議なドアがあります。タイルで覆われた立派な外壁の一部が金属の枠で長方形に仕切られていて、そこにドアがあるのは明らかなのですが、手をかけるところもなければ、鍵穴さえないのです。それは、内側からしか絶対に開けられない、非常用のドアだということでした。とても印象に残ったので、後でそのドアのことを思い返しているうちにふと思ったのは、人間の心にとてもよく似ているということです。人間の心も、自己防衛本能や絶望などによって堅く内側から閉ざされてしまうと、外側からは絶対に開けることができません。本人が、心のドアを開いて出てくるのを待つ以外にないのです。
 「もしモーセ預言者に耳を傾けないなら、死者の中から生き返る者があっても言うことを聞くまい」というアブラハムの言葉は、このような人間の心の性質をよく知った上でのものだと思います。利己心に埋没し、自分のことしか考えられなくなっている人の心は、内側からしっかり閉ざされて、外側からは絶対に開くことができないドアのようなもの。モーセ預言者に対してさえ心を閉ざしてしまった人には、たとえ死者が蘇って説得しても無意味だということです。中に閉じこもっている人たちが自分の間違いに気づき、心のドアを開く以外、彼らに真理を受け入れさせる方法はありません。
 ちょっと冷たく聞こえる、「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」というアブラハムの言葉も同じことを言っているのだと思います。自分のこと、あるいは自分の家族のことしか考えられない人と、貧しい人々の友である神とのあいだには、無限の隔たりがあって越えられないということです。このお金持ちの発言を見れば、彼が自分や自分の家族のことしか考えていないことは明らかでしょう。「わたしを憐れんでください。わたしは炎の中で苦しんでいます。ラザロをよこしてください」。そして、「わたしの兄弟がこんな苦しい場所に来ないように、ラザロを送って下さい」。どこにも地上で苦しい思いをしてきたラザロに対する労わりや、彼を無視してきたことへの後悔の念が感じられません。彼が考えているのは自分のこと、そして家族のことだけなのです。
 アブラハムとラザロがいる場所と、金持ちがいる場所のあいだにある大きな淵を越えられるのは、ただ愛だけです。彼が貧しい人々の苦しみに気づき、愛に駆られて自分から心を開くまでは、たとえ神であっても彼を救うことはできないのです。アブラハムは、彼を冷たく突き放したわけではありません。もし彼の口からラザロを少しでも労わる言葉や痛悔の言葉が聞かれたなら、アブラハムの態度はもっと違っていたことでしょう。
 キリストは、いつも私たちの心の扉を叩いています。大切なのは、外にいるキリストの痛みや苦しみに気づき、キリストに心を開くことです。キリストを、温かな愛で迎え入れられるかどうかに、わたしたちの救いがかかっているのです。すべての扉を開く愛、貧しい人々、苦しんでいる人々の痛みを自分自身のこととして感じ、彼らのために手を差し伸べずにいられなくなるほどの愛の恵みを、神に願いたいと思います。
※写真…梓川の流れ。上高地にて。