祈りの小箱(70)『互いに祈りあう』


『互いに祈りあう』
 あるお年寄りが、家族や恋人、友人たちとぶつかり合い、傷つけ合った若い頃を振り返りながら「あの頃わたしたちは、自分が何をしているのかも分からないままお互いに傷つけ合っていた」と静かにつぶやきました。いまから当時のことを振り返ると、あの頃何が本当の問題だったのか、互いを傷つけてしまった本当の理由はなんだったのかがよく分かるというのです。「まあ、家族も友だちもほとんど死んでしまったから、いまさら分かっても手遅れだけれどね」とその方は苦笑いしていました。
 自分が何をしているのかも分からないまま、お互いに傷つけ合った体験があるのは、このお年寄りだけではないでしょう。わたしたちのほとんどが、相手のことはもちろん、自分自身のことさえよく分からないままお互いに裁きあい、傷つけ合いながら生きている。そんな気がします。なぜ、相手に対して腹が立って仕方がないのか。相手の一言がそれほどまでに気になるのか。わたしたちは、本当の理由がよく分かっていません。感情が高ぶっているとき、その感情の一番奥深い所に何があるのか、わたしたちは気づいていないのです。自分についてさえそうですから、なぜ相手がそんなことをしたのか、言ったのかが分からないのはもちろんのことです。それにもかかわらず傷つけ合わずにいられない人間の愚かさを、神は嘆いておられるに違いありません。イエスが自分を傷つける兵士たちに向かって言った、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)という言葉は、すべての人間に向けられた憐みの言葉と受け取っていいと思います。
 相手のことはもちろん、自分自身のことさえよく分からない自分の無力さを知れば、もう誰も裁いたり、傷つけたりすることはできなくなるでしょう。むしろ、お互いの人間としての限界をいたわり、相手のために祈らずにいられなくなるはずです。自分たちの力ではどうにもならない現実に気づくとき、わたしたちは祈らずにいられないのです。裁きはすべてをご存知の神の手に委ね、わたしたちは互いにゆるしあい、愛し合い、祈り合いたいと思います。
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