バイブル・エッセイ(367)感謝してこそ


感謝してこそ
 エスエルサレムへ上る途中、サマリアガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17:11-19)
 戻って来て感謝したサマリア人に、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と告げました。これは、とても意味深い言葉だと思います。病を癒された人は10人いましたが、救われたのはこの人1人だけだったのです。神が与えて下さる恵みは、感謝して受け取るときにこそ完成し、わたしたちを救う。イエスの言葉を、そのように理解したいと思います。
 重い病を癒していただくことは確かに大きな恵みですが、人間はそれだけでは救われません。病気がよくなって元気になれば、きっとその人は次によい仕事や収入、地位や名誉などを求めるようになるでしょう。そして、それらのものが手に入らなければまた不幸になり、神に不平不満を言い始めるのです。病気を治していただいたことはまるで当然のようにみなし、もう感謝することもありません。慈しみ深い神は、そのような恩知らずな人間に対しても惜しみなく、ふんだんに恵みを注いでくださいますが、恩知らずな人間の心にそれが溜まることはないのです。まるで、底のない壺に水を注ぐように、注がれた恵みはどこかに消えて行ってしまいます。
 わたしたちが救われるかどうかは、感謝できるかどうかにかかっていると思います。受けた恵みをしっかりと味わい、感謝して神を讃美する中で、わたしたちの心の隅々ににまで神の愛が行き渡ります。その愛こそが、わたしたちの心を満たすのです。神の愛に感謝をもってこたえるときにだけ、わたしたちは神の愛としっかり一つに結ばれ、魂の救いに到達することができるのです。戻ってイエスに感謝した人だけに救いが宣言されたのは、そのためだと思います。
 救われるために受け取る恵みは、大きなものである必要はありません。神の前で遜る小さな心は、ほんのわずかな恵みによっても一杯に満たされるからです。傲慢な心は、たとえ全世界を呑みこんでも満たされることがありませんが、謙遜な心は、ほんの小さな恵みによっても一杯に満たされるのです。謙遜な心は感謝を知り、感謝はわたしたちの心を神の無限の愛で満たすからです。これは、本当に不思議な人間の心の性質だと思います。たとえば、今日のミサには4カ月ぶりに病院を出て車椅子で出席しておられる方がいますが、その方の心は今、ミサに出られたということだけで大きな喜びに満たされているに違いありません。
 救われるためには、次々と新しい恵みを与えられる必要もありません。これまでにいただいた恵みを忘れることなく、感謝し続けるなら、わたしたちはいつでも救われることができるのです。どんなに大きな恵みを与えられても、わたしたちは歳月の経過とともにそれを当たり前のこととみなして感謝を忘れるようになりがちです。病気の快復だけでなく、結婚や叙階の恵み、子どもの誕生など、そのときに神がどれほどわたしたちに恵みを注いでくださったかを忘れないように、折に触れて思いだし、感謝したいものだと思います。それこそが、記念するということでしょう。感謝しない人だけが、いつまでたっても満たされることなく、次々と新しい恵みを求め続けるのです。
 神から与えられた恵みは、感謝して受け取ることによって完成し、わたしたちを救う。そのことを忘れず、わたしたちを救いへと導く唯一の道である謙遜と感謝の道を歩き続けましょう。
※写真…奈良市若草山のススキ。