【フランシスコ教皇の言葉】


フランシスコ教皇の言葉
■説教・メッセージから■
10月11日(金)朝のミサ
「ある司祭たちは『彼らは悪霊に取りつかれていたわけではない。精神病だったのだ』と言いますが、そんなことはありません。悪霊の存在は聖書の最初の頁から記されているし、聖書は悪霊の存在と共に終わっています。神が悪霊を打ち破って終わるのです。」
「目を覚まして見張っていましょう。悪霊の策略はこうです。まず『あなたはキリスト教徒で、信仰において進んでいる。だから、私はあなたから離れ、静かにしておこう』と囁きます。そして、あなたが安心し、見張りを怠るようになったら戻ってくるのです。」
10月13日(日)聖母マリアに捧げられたミサ
「神は絶えず私たちを驚かせ続けます。私たちの思い込みを吹き飛ばし、計画を滅ぼしてしまうのです。そして、私たちに言います。『信頼せよ、恐れてはならない。驚かされるままになっていなさい。自分を捨てて、私に従いなさい。』」
「自分に尋ねてみましょう。マリアと同じように、私は神に驚かされるままになっているだろうか。それとも、安全な場所にしがみついているだろうか。物や知性、主義主張に支えられた安全にしがみつき、自分の計画に隠れていないだろうか。私は、神が人生に介入するのをゆるしているだろうか。神にどう答えているだろうか。」
「私たちは張り切って何かを始めますが、最初の困難が訪れるとタオルを投げ込んで(ギブアップして)しまいます。神に『はい』と答えるのはとても簡単なことですが、その『はい』を1日ごとに、日々繰り返すのは難しいのです。」
「『ゆるしてください』、『ごめんなさい』、『ありがとう』、これらの3つの言葉を言える家族は幸せです。家族や仲間に、どれだけ『ありがとう』と言っているでしょう。私たちは、すべてを当然だと思って感謝しません。神に対しても同じです。」
10月14日(月)スペインの殉教者列福に当たってのメッセージ
「殉教者とは誰のことでしょう。それは、キリストによって贖われた人々であり、『極みまで愛する』ということの意味をよく学んだ弟子たちです。分割払いの愛とか、部分的な愛とか、そんなものはありません。あるのは全てをかけた愛だけです。愛するときには、最後まで愛しぬくのです。」
「私たちが実体を伴ったキリスト教徒、言葉だけではなく実践するキリスト教徒になれるよう、生ぬるいキリスト教徒や、表面をキリスト教で塗られたうわべだけのキリスト教徒にならないよう、殉教者たちの執り成しを願いたいと思います。殉教者たちは、うわべだけのキリスト教徒ではありませんでした。彼らは、とことんキリスト教徒だったのです。」
10月17日(木)朝のミサ
「信仰がイデオロギーとなるとき、それは人々を追い散らし、教会から遠ざけます。信仰をイデオロギーにしてしまったキリスト教徒は、教会にとって深刻な問題です。彼らは厳格で、道徳的で、倫理的ですが優しさがありません。」
「信仰のドアを開く鍵は、祈りです。祈らないなら、信仰はイデオロギーになります。祈らない人は、信仰を捨て、それをイエス抜きの、道徳的で詭弁的なイデオロギーにしてしまうのです。」
教皇様のツイート■
10月10日(木)
「十字架の神秘、この愛の神秘は祈りによってのみ理解することができます。十字架の前に跪き、祈って涙を流すことで理解できるのです。」
10月11日(金)
「十字架に出会うとき、私たちはマリアの方を向きます。そして『私たちの母マリアよ、十字架を受け入れ、抱きしめる力をお与えください』と祈るのです。」
10月12日(土)
「主よ、憐れんで下さい。私たちは快適な生活に目をくらまされ、玄関先で死にかけている人々を拒んでしまうことがあまりにも多いのです。」
10月14日(月)
「若者たちよ、人生を変えるほどの決断を恐れてはなりません。信じなさい。主があなたがたを見捨てることはないのです。」
10月17日(木)
「私たちの祈りを、日曜日の1時間だけにしてしまうことはできません。主との日々の交わりを持つことが大切です。」